ほうかごがかり 2
五話 ③
臆病だ。死ぬのが怖い。痛いのが怖い。ありとあらゆる危険が怖いし、さらに付け加えるなら、怖いことが怖い。
昔からだ。自分でよく分かっていた。自分のことだから。
よく知っていて――――絶望していた。全てはこれが原因だった。臆病な自分は、大好きな漫画に出てくるキャラクターたちと同じような、強く気高く美しく勇気ある生き方は絶対にできなくて、せいぜい悪役やひどい目にあうモブキャラクターのような、弱くて卑怯な生き方しかできないのだ。
特にイルマは、幽霊が怖かった。
イルマは例えるなら、周りにいる他の子の、二倍の怪談を聞いて育ってきた子供だった。
パパの方のおばあちゃんと、ママの方のおばあちゃん。それが二人ともイルマに怖い話を聞かせる人だった。どちらも子供を戒めるために怖い話を使う人だったのだ。
ママの国には、何種類もの幽霊がいた。
死体を包む白い布を被った亡霊『ポコン』。赤ん坊の幽霊『トゥユル』。体に穴が空いた女の幽霊『クンティラナック』――――それらはまとめて『
そして人を襲う。それは人間にとって、恐怖で、罪で、罰で、戒めだった。イルマはママ方のおばあちゃんから、『ハントゥ』の話をたくさんされて育った。悪いことをするとハントゥが来る。それはハントゥの仕業だ。あの人はハントゥにやられてあんなことになった。あそこにはハントゥが出るから近づいちゃいけない。と。
そして、パパ方のおばあちゃんからは、『お化け』の話をされた。
悪い子のところにはお化けが来るよ、と。ママの国の幽霊のように細かく名前はついていない、でもそこらじゅうにいるお化けが、幽霊が、祟って、呪って、それからそこらじゅうにいる神様が、恐ろしい罰を当てるんだよ、と。
二つの国をルーツに持つイルマは、戒めとして二つの国の怪談を、つまり他の子の二倍、聞かされて育った。
イルマは怖かった。ママの国の『ハントゥ』が怖かった。ポコンも、トゥユルも、クンティラナックも。パパの国の『おばけ』も怖かった。幽霊も、祟りも、罰を当ててくる神様も、それからトイレの花子さんも、ひきこさんも、テケテケも、口裂け女も、不幸の手紙も、合わせ鏡も――――それからムラサキカガミも、怖かった。
イルマは、自分が二十歳まで『ムラサキカガミ』の言葉を覚えていると、確信していた。
そんなイルマだから、最初はともかく、次々と『かかり』のみんなが恐ろしい目に遭い始めた時に、思ったのだ。
無理だ。
と。
ただ純粋に無理だった。イルマは『ほうかごがかり』になってから、一度も自分の担当している『無名不思議』がいる部屋に、入ったことがなかった。
毎週金曜日の深夜、音割れした学校のチャイムに起こされて『ほうかご』に呼び出されたイルマは、まず最初に家庭科室の前に立っている。家庭科室の扉は開いていて、中の様子が見えているが、イルマは中には入らず目をそむけ、そこを立ち去って、そのまま『開かずの間』に行ってしまい、戻ってくることはない。
最初の日も、怖くて長い時間、扉の前で立ちすくんでいる間に惺が迎えにきたので、中には入っていなかった。
その時は、開いていた扉から、部屋の奥に見える調理台つきの教卓の上に、異様な存在感をした鏡がぽつんと一つ置いてあるのが見えて――――そしてその鏡面が紫色にうっすら光っているように見えて、とてもではないが中には入れず、それ以降も一度も家庭科室には入っていなかったし、中の鏡も一度として見ていなかった。
あれから『かかり』の日のたびに、教室の中を見ないようにして逃げている。
もちろん怖いからだ。だから最初の日以降、例の鏡は見ていない。
楕円形をした、重そうな金属製の枠と台がついた、古ぼけた鏡だった。いかにもな鏡だ。でもそれ以上に、広い家庭科室の中が見えた瞬間、真っ先に目が行ったくらいの、説明のできない異様な存在感が、その鏡にはあった気がした。
あの鏡が、今どうなっているのか、イルマは全く知らない。
知りたくもない。もし変化があったら、怖いし嫌だからだ。
当然ながら、『記録』などもつけていない。
見たくない。触れたくない。知りたくない。関わりたくない。
この『ほうかごがかり』になって、高揚がおさまって現実を知って以降、イルマが考えていたことは、とにかくそんなことばかりだ。とにかくこの恐ろしい状況から一刻も早く解放されたい、望むことは、まずそれだった。
いくつか試みもしていた。夜、『ほうかご』に呼び出されないようにする試みだ。
部屋のドアに鍵をかけたり、布団を持ち込んで寝る部屋を変えたり、お願いしてパパやママと一緒の部屋で寝たりした。
だが、鍵は全く無駄で、部屋を変えてもチャイムと呼び出しの放送はついてきた。さらに両親と一緒に寝た時には、大音量のチャイムと放送が鳴り響く部屋の中で、パパもママも全く目を覚まさず――――呼びかけても揺すっても叩いてもずっと死体のように眠る両親がいる中で変わらずに呼び出され、結果として別の不安と恐怖が加わっただけで、呼び出しから逃れることはできなかった。
最後の手段として、チャイムが鳴っても応じないことも試した。
単純で、しかし最も覚悟のいるやり方だった。チャイムが鳴り、呼び出しの放送が聞こえても、頑として布団の中に閉じこもって、何も見ず、聞かず、動かず、絶対に『かかり』には行かないという抵抗だった。
その日は、恐怖と緊張で眠れないまま時間を迎えた。
カァ――――――――ン、
コ――――――――――――ン!
そして時間になって、耳を破壊しようとするかのような、あまりにも不快に音割れした、あのチャイムが鳴りはじめた。耳の中と脳を貫いたそれに、びくっ、と体をこわばらせたイルマは、布団をつかんで自分の体に強く強く巻きつけた。自分の体温と、綿と布の中に、しがみつくようにして、隠れるようにして、必死の思いで身を縮めた。
『――――ザーッ――――ガッ……ガリッ…………
ほうかごガかり……は、ガっ……こウに、集ゴう、シて下さイ』
「…………………………!!」
呼び出しの放送。聞かないふりをした。
開いたドアの気配も、そこから流れ込む空気の温度と匂いも、空気をざらつかせる放送の音も無視して、ただじっと耐えた。
起き上がらず、ベッドの上で、布団の中で、息を殺してじっとしていた。そうして身動きせず、呼び出しの放送をやり過ごし、放送の声とその余韻が細く消えていきかけたその瞬間――――何かの手にいきなり足首をつかまれて、ものすごい力で布団ごと引きずられ、ベッドから落ちてフローリングの床を滑ってドアの向こうに引きずり込まれ――――布団のまま家庭科室の前に放り出されたので、さすがにこれ以上は恐ろしい状況が増えるだけだと悟って、呼び出しに抵抗するのを諦めた。