ほうかごがかり 2
五話 ④
2
『日付』
『担当する人の名前』瀬戸イルマ
『いる場所』家庭科室
『無名不思議の名前』ムラサキカガミ
『危険度』
『見た目の様子』
『その他の様子』
『前回から変わったところ』
『考察/その他』
†
空白の『日誌』。
呼び出しへの抵抗は、諦めたイルマ。だが、だからといってイルマは、『日誌』をつけることはしなかった。
家庭科室には入らない。中の鏡は絶対に見ない。せめてもの抵抗だ。見ない。知らない。しかし『ムラサキカガミ』はその間にも、他の子と平等に、イルマの日常に入りこんできた。
最初は、二回目の『かかり』があった翌週、思い切って真絢を待って、話しかけた朝だ。
イルマからすると理不尽な不幸でしかない『かかり』だが、それでも待ち望んだ真絢との接点であることは変わりなく、それに浮かれたイルマはなけなしの勇気を振りしぼって、恥を忍んで、話しかけたのだ。
「あ、あの……見上さん」
早い時間に登校して、真絢が登校してくるのを待って、そう声をかけた。
共通の話題が『ほうかご』しかないことが残念だった。だがそれでも、真絢はイルマの名前を覚えてくれていて、それが心の底から嬉しかった。
初めてちゃんと話ができた。話した真絢は、イルマの思った通りの人だった。
綺麗で、優しくて、聡明で、強い。思っていた通りのヒロインだった。イルマのことを心配してくれて、舞い上がったイルマは、もう何年も心の中で思い続けていただけだった、真絢への賞賛と憧れを、必死になって言葉にして伝えた。
それは、本当に天にも昇るような気持ちだった。
ずっと夢想していたことが、ずっと夢想するだけで叶わないだろうと思っていたことが、今このとき叶ったのだ。
たぶん、今までの人生で、一番の幸せ。
一番の幸福。一番の高揚。これが、たぶん今までのイルマの人生で最高の時で――――そしてこれが、最後の最高だった。
赤紫色に光る鏡が見えた。
玄関から見える、ずっとずっと向こうの廊下。登校してきた子供が行き交う景色の、その向こうにたまたま目を向けた時――――廊下の先の手洗い場の壁に据えつけられた鏡が、明らかな赤紫色を帯びて光っていたのだ。
「ひっ……!」
息を呑む悲鳴を上げた。ぞっと鳥肌が、今の今まで夢見心地に上気していた肌の上に、一瞬にして広がった。目を見開いた。顔から血の気が引いた。その紫色は最初の『ほうかごがかり』の日、家庭科室の鏡の表面が帯びていた色と、完全に同じものだったのだ。
「――――なんで『ムラサキカガミ』が、ここにあるの……!?」
押し殺したようにそう叫んで、逃げ出したイルマ。
そしてそれ以降、イルマの日常生活の中に、『紫色の鏡』が現れるようになった。
生活していて、時折、不意に目に入った鏡が、紫色に光っている。
それを見るたびにイルマは心臓が跳ね上がり、悪寒に襲われる。
現象だけなら、紫色の鏡が見えるという、ただそれだけのことだ。
だが、明らかに普通のものではない異常な現象は、ただの臆病な小学生にすぎないイルマが怯えるには十分だった。
しかも不意に目に入るその鮮烈な赤紫色は、不吉な知らせが映った心霊写真を思わせる、見たこともないような禍々しい色をしていた。見た瞬間に本能が厭なものを感じ取り、一瞬にして鳥肌を立てる、異常な赤紫色の光が、生活の中に忍び寄るのだ。
ちら、と見える、紫鏡。
ひっ、と息を呑んで、もういちど見直すと、消えている。
慣れたりはしない。それはとても慣れることができないような、気持ちの隙間を狙って視界に入るのだ。すぐにイルマは鏡を怖がるようになった。怖くて、できるだけ鏡を避けるように、見ないように、視界に入れないように、注意するようになった。
「なるほど、瀬戸さんのところに現れる『無名不思議』は、それだけなんだね?」
だが、イルマに起こる現象についての、惺の感想は、こんなものだった。
初めて見た日常の『ムラサキカガミ』に対する感想。どれだけ優しげに言ってみても、公平そうな態度を取ってみても、この『かかり』を主導している惺の中で、イルマの危機が軽く見られていることは、すぐに分かった。
その時点で、惺に相談する気はなくなった。
惺は絶対、イルマの感じている恐怖を重く受け止めない。なのでイルマのまともな『ほうかご』の相談相手は真絢と留希だけになった。
実質、真絢だけだ。
留希は真面目に聞いてくれるが、いかにも頼りないし、少しずれている。
イルマの気持ちを、恐れの気持ちを、ちゃんと受け止めてくれるのは真絢だけだった。
やはり憧れのヒロインである真絢だけが、ちゃんとイルマの恐れを理解して受け止めてくれて、慰めてくれるのだった。
「見上さん、見上さん」
イルマは、真絢とたくさん話をした。
真絢は優しかった。真絢のことをますます好きになった。
ただ、一つだけ不満があった。
イルマと同じく、『かかり』には従わない態度を表明している真絢だが、イルマがずっとそれとなく伝えている、この件を大人に相談した方がいいという考えには、曖昧に笑って絶対に同意しないのだ。
大人に『かかり』のことを言ってはいけないと、『しおり』には書いてある。
イルマはそれを馬鹿馬鹿しいと思っていたが、しかしイルマが見ている限り、この異常な事態を、お父さんやお母さんや先生や、あるいは警察などに相談している様子が、真絢を含めて誰にもなかったのだ。
子供だけで解決しようとしているようにしか見えなかった。そんなこと、できるわけがないのに。
イルマはそう思って真絢に伝えるが、子供だけで解決できるわけがないという意見には同意するものの、大人に伝えることに対しては、真絢の態度は曖昧だった。
「……もし喋ったとして、信じて貰えなかったら、面倒なことになると思う」
真絢は言っていた。
言っていることは分かる。でもイルマは言うべきだと思った。色々とあるだろうが、最後に頼りになるのは結局パパとママ、先生、大人なのだ。
ずっと思っていた。大人に相談するべきだと。
でも、これをきっかけに仲良くなることができて、一番頼りにしている真絢が――――憧れている漫画のヒロインのように美しく強くて気高くて賢い真絢が――――難色を示しているのに、自分が勝手にそうするのは裏切りに思えて、しばらくの間はイルマも、大人に『ほうかごがかり』のことを相談しなかった。
自分の身に怪しい現象が起こり始めても、ぐっと耐え忍んで、誰にも言わなかった。
怖くても、不安でも、真絢とのことを思えば、ギリギリ耐えられた。
真絢と並んでいたかったから。
それから少しだけ、真絢と重大な秘密を共有している気分になって、それがこっそりと嬉しくて、大人には言わなかった。
そして、真絢は死んだ。血みどろの袋に詰められて。
頭が真っ白になったイルマはこの世の終わりのように泣き叫んだ。
みんなは、あまりにも異常な事態に、もう『赤い袋』の中にいる真絢ことをどうすることもできず、仕方なく校庭に何も入っていないお墓を作った。
それが九回目の『ほうかごがかり』。
六月の初めのことだった。
†