ほうかごがかり 2
五話 ⑥
「」
ママの貌が、死体になった。
目の前で、今まさに目の前で、近くに突き合わせていたママの顔から、一瞬にして表情と意思と生気が抜け落ちて、生きた人間のものではなくなった。
「!?」
ぶわ、と恐怖で鳥肌が立った。『その言葉』が相手の耳に入ったと思われた瞬間、目の前の母親の顔から、人間を生きた存在として認識するために必要なものが、ごっそりと何もかも喪われたのだ。
見るからに大きな変化があったわけではない。だが明らかな変貌だった。変質とさえ言ってよかった。このとき母親の顔から、生きた人間としての自然な動きが、瞬きも、無意識の筋肉のわずかな動きも、呼吸の動きまでもが完全に止まって、それと同時に開きっぱなしの目の中にある瞳から意思の光が消えて、こちらを見ていた目が一瞬にして何も映さなくなって、空洞のようになった目玉が虚ろにこちらを凝視したのだ。
「ひっ!!」
見慣れた肉親の貌が、表面だけ似せて、粘土で作った塊になった。
心と命の喪われた、ただの肉でできた顔になった。
死体の顔。
母親の死体の顔。
それと間近に向き合った自分も、瞬きを忘れて、息をするのも忘れて、全身の毛穴から冷たい汗が噴き出るのだけを感じながら立ちすくんだ。
時間が凍った。
だがそれは、おそらく刹那のことで、錯覚のような一瞬の後に気がつくと、時間は再び動き出した。
目の前にはいつものママがいて、イルマを見ながら、微笑んでいた。
そして微笑みながら、ママは言ったのだった。
「――――なあに? イルマ」
「!?」
えっ。
たったいま、さっき一度聞いたはずの言葉を。
イルマは激しく混乱した。動画のシーンを間違えて前に飛ばしてしまったかのような、連続性の突然の断絶があった。
突然のやり直し。その不可解な現象に直面したイルマは、混乱した。しかし確かに混乱ではあったが、その混乱は同時にイルマにとって、ある種の安堵のようなものを驚いたことに含んでいた。
ああ、いま一瞬、見たと思ったものは、なかったのだと。
安堵したのだ。今のは気のせいだったと。あるいは一瞬の空想だったと。錯覚だったと。白昼夢だったと。
今あったやり取りは、なかったことになったのだと。だからそれに安心して、この白昼夢のようなやり直しを、戸惑いながらもイルマは受け入れて――――しかし心の端では強烈な違和感と不安を残したまま――――イルマはもう一度、さっきの問いを繰り返した。
「……『ほうかごがかり』って、知ってる?」
だが瞬間。また母親の貌が死んだ。
そして。
「なあに? イルマ」
断絶。
巻き戻る時間。
ママの連続性が断絶し、言葉が繰り返された。
異常は決定的だった。頭から血の気が引いた。指先が冷たくなった。だが目の前のママは元の顔で「なあに?」とこれからイルマがするはずだった質問を待っていて――――イルマは仕方なく、その迫ってくる現実の時間の経過に耐えられなくなって、もう一度一縷の望みをかけて、この輪廻から抜け出すことを願って、また質問を口にした。
「『ほうかごがかり』って、知ってる?」
瞬間、顔に浮かぶ死。
そして断絶。巻き戻る時間。
「なあに? イルマ」
もう一度。
イルマは質問した。
死。
断絶。そして。
「なあに? イルマ」
もう一度。
質問。
死。
断絶。そして。
「なあに? イルマ」
もう一度。
「なあに? イルマ」
もう一度。
「なあに? イルマ」
もう一度。
「なあに? イルマ」
もう一度。
「なあに? イルマ」
「なあに?」
「なあに?」
「なあに?」
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