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「っ……!」
通過。軽い眩暈。
背後で襖が消え、着ていたパジャマが、昔の制服へと変わった。
周囲の景色が、空気の匂いが、完全に『ほうかご』の学校に。それを見回すと、啓は絵具で汚れた重たい帆布のリュックサックとイーゼルを背負い直し、目の前にある屋上の出入口に背を向けて、階段へと向かっていった。
足早に。階下へ向けて。
みんなの集まる、『開かずの間』に向けて。
確かめなければならなかった。惺がどうなっているのか。『ほうかご』に来ているのか。
死んだという話は確かなのか。そしてもし本当に惺が死んでしまったのだとしたら、その原因は『無名不思議』なのか、それとも偶然の、全く違う理由なのか。
「……」
その手がかりを求めて、啓は真剣な表情で、『開かずの間』へ向かう。
チャイムとノイズと『ほうかご』の空気に曝されたことで、啓は逆に、急速に、冷静さを取り戻していた。
それは『無名不思議』に――――命と魂と存在にかかわる危険に対応するための、非日常の冷静さ。
これまでの経験によって身についた、否、身につける羽目になった、尋常のものではないマインドセット。それが『ほうかご』がやって来たことによって、いつものように意識の中に顔を出し、この『無名不思議』とは別の種類の『危機』に対しても働いて、呆然としていた啓を我に返らせたのだった。
啓は、『開かずの間』を目指して歩く。
真っ直ぐに。しかし遠回りに。いつも通りに。最初の頃に惺から受けた助言に従った、そこかしこにある名無しの『無名不思議』がいる場所を避け、迂回する、いつもそうしているルートを通って。
このせいで、いつも『開かずの間』に集まるのは、啓が最後だ。
ただでさえ、啓が担当している屋上は『開かずの間』から一番遠い。その事実をいつも以上にもどかしく思いながら、啓は焦りと緊張と疲労によって、少し上がった息で、早足で階段を下り、廊下を進んだ。
明かりがついているのに、ひどく薄暗い廊下を。
そんな廊下よりもさらに薄暗い階段を。そんな通路に並んでいる、ガラス一枚向こう側に墨を満たしているかのように真っ黒な、外を映した窓の横を。
校舎に満ちている、どこか埃っぽい匂いのする冷え冷えとした空気の中を。
そんな空気の中に、天井のスピーカーが絶えず垂れ流している、細かい砂を流すような、ノイズの中を。
そんな、いつもの『ほうかご』の中を。
いつものように。しかし、いつもとは全く違う精神状態で。
そして――――そうして歩いていた、いつもの廊下で。この日の啓は、いつもとは違うものを目撃した。
「……んっ?」
階段を下り、廊下に出た、その時。
薄暗く続いている廊下の向こうに一人、誰か人影が、ぼんやりと立っているのが目に入ったのだ。
ぽつんと一人。
人影。
今まで啓は、『ほうかご』にやってきてすぐの、『始まりの会』に向かう途中で、他の『かかり』の姿を見たことは一度もなかった。
それは当然のことだった。『開かずの間』という、他の人間も集まっている安全な目的地があるというのに、そこへ真っ直ぐ向かわずに、わざわざ怖くて危険な『ほうかご』を一人でうろつきたい者など誰もいない。
いない。普通は。
つまりこれは、普通ではない。
「誰だ……?」
啓はいぶかしく眉を寄せ、そして何かあったのだろうかと目をこらした。
遠くに。薄暗がりに。目をこらして、ようやく見えた。制服を着ていた。啓の見知った人間だった。
小嶋留希だった。
留希は廊下の向こうに、一人で立っていた。
啓の眉が、さらに寄る。
「……なにしてんだ?」
啓は近づいてゆく。留希は啓には気がついていない様子で、ほぼ背中を向けて、壁とも天井ともつかないどこか別の方向を向いて、心ここにあらずといったふうに、妙に心もとない風情で廊下に立っていた。
「――――――」
ぼんやりと、立っていた。
「……?」
どうした?
啓は不審に思い、そのまま近づいた。
特に身を隠したりはしていない。しかし反応がない。
近づいた。
そして、
「おい、どうした?」
声をかけた。
ようやく留希が振り向いた。
顔面に、真っ黒な穴が空いていた。
中央からずれて空いた大きな穴。振り向いた留希の相貌は、口の一部だけを残して、ごっそりとなくなっていた。
その顔と目が合う。
眼球も何もかもが失われた顔と。
「っ!?」
押し殺した悲鳴を上げた。体に鳥肌が駆け上がった。啓はすぐさまその場で背を向けて、逆方向に走り出した。目の前の『留希』から逃げ出した。
「――――――――――っ!!」
全力で。
一瞬の判断で。
そんな背後ですぐさま、こちらを追ってくる足音が聞こえた。
ぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱたぱた…………!
普通の人間の走り方ではない、意思を感じない、奇妙におぼつかない足取りを、無理やり機械的に駆り立てたような歪な足音。それが明らかに追いすがってきて、両手を伸ばしてくる気配がして、捕まえようとしてくる気配がして、ぶわ、と悪寒と共に全身から冷や汗が噴き出した。