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やっとのことで『開かずの間』にたどり着くと、すでに堂島菊が来ていた。
菊以外には来ていなかった。惺の姿も、留希の姿もない。いるのはただ、最初からここにいる『太郎さん』だけだった。
「だ、大丈夫だった……!?」
焦り、心配した様子で菊が進み出てきて、啓を迎える。警戒と緊張の中、ずっと張り詰めて移動してきた啓は、『開かずの間』の扉を閉めると、ようやく息を吐き、ほとんど引きずるように両手に持っていたランドセルと手さげ袋と、それから何とか途中で回収してきた自分のリュックサックを同時にどさりと下ろして、解放された安堵と疲労で、ずるずると床に座り込んだ。
「……なんだよ……なんなんだよ、あれ」
そして言う。
「やっぱり、二森くんも、見たんだ?」
何を、と言わずとも、お互いに分かっていた。
「……ああ、見た」
「遅かったから……二森くん、あれに捕まったんじゃないかって、心配して……」
「捕まりかけたよ」
思い切り顔をしかめて答える。そして下を向いたまましばらく呼吸を整えて、それから顔を上げ、菊に訊ねた。
「なあ、何が起こってるんだ? 堂島さんは分かるか?」
「……ううん」
菊は、箒を抱きしめるようにして、首を横に振った。
「『太郎さん』は?」
「……」
啓は次に、この騒ぎの中でも振り向きもせず背中を向けて座っている『太郎さん』に向けて質問したが、『太郎さん』は黙ったまま答えを返さなかった。
「なあ、何が起こってるんだ? さっきの『あれ』、まさか本物の小嶋君なのか?」
「……」
それでも訊ねる啓。
そして、
「それに――――惺は? 惺は、ほんとに死んじゃったのか?」
強い調子で、それを問いかけた。振り向きもせず背を向けたままの『太郎さん』は、そこでようやく、問いに答えた。
「キミがそう訊ねて、あいつがここに来てないってことは、そういうことなんだろ」
「……っ!」
いつもよりも冷たい、つっけんどんな答え。
啓は強く歯噛みした。血の気が引く。母親から聞かされて以降、ずっと詰まったように停滞していた理解と情動が、『太郎さん』の言葉によって一気に流れ出し、胸と頭の中がぐちゃぐちゃになった。
悲しみ。
怒り。
悔しさ。
そしてなおも信じたくない思い。
叫びたかった。泣きそうだった。だが啓はそれらを全て押し殺し、涙も流さない。幼い頃の父親とのかかわりは、そういった弱い感情を素直に表に出すことは、悪い状況に対して何の解決にもならないと、それどころか解決の害になると、啓の根本の根本に経験として刻み込んでいたのだ。
「犬死にだよ。あいつは、いつかやらかすと思ってた」
そうして耐える啓の前で、吐き捨てるように『太郎さん』は言う。
「僕には知りようがないけど、たぶん『向こう』の学校で、小嶋留希の担当してた『無名不思議』に関係する何かがあって、それをどうにかしようとしたんだろうな。
正直、珍しいことじゃない。そうやって『かかり』のやつが誰も知らないうちに死んでるなんてこと、今までに何度もあったよ。犬死にだ。結局あいつも、この棚に数えきれないほど並んでる、つまらない記録の一つに、仲間入りしたんだ」
「っ!」
その言いぐさに、啓は思わず立ち上がり、無表情でつかつかと『太郎さん』に向かって行くと、いつかそうしたのと同じように、背を向けたままの肩をつかんだ。
「お前、そんな、言いかた――――!」
そして声を荒らげて言い、ぐい、と肩を引っ張った。
慌てて止めようとする菊。その制止は間に合わなかったが、肩を引いてこちらを向かせて『太郎さん』の顔を見た啓は、そのまま言葉を失い動きを止めた。いつかそうなったのと同じようにだ。
「!」
「……なんだよ」
振り向かせた『太郎さん』の顔に、その目に涙があったからだ。目が合った啓を、『太郎さん』はきっとにらみつけると、肩をつかんだ啓の手を振りほどき、頑なな態度で背を向けて、そむけた顔を半纏の袖でごしごしとこすった。
「……」
「撤回はしないからな。犬死にだ!」
そして、言い放つ。
「これだから、『かかり』の連中と仲良くする意味はないんだ。それなのにガキどもは、大人が言う『お友達』なんて言葉を真にうけて――――ただ同じ学校にいるとか、クラスとか係が同じだとか――――そんなのが友達なわけないだろ! なのに人のスペースにズカズカ踏みこんできて、ベタベタしようとしてきて――――それで、あっさりいなくなるんだ。僕は、キミらが、嫌いなんだよ!」
叫ぶ『太郎さん』。啓は振りほどかれた手を、黙って下におろし、『太郎さん』の肩をつかんだ時よりもずっと強い力で、その手をぎゅっと握りしめた。
「…………!」
左手の手のひらを、強い痛みが刺す。
剣の先のように尖らせた薬指の爪。惺に言われ、『無名不思議』から正気を保つためにそうした爪が、心だけでなく、肉体を痛みで刺した。
そして思う。考えたことがないわけではない、と。
惺が死ぬことを、考えたことがないわけがない。だがよくよく思い返せば、本当にそうなると思ったことは、たぶん一度だってなかった。
本当に惺が死ぬなど、想像できていなかった。
いや、違う。たぶん啓は、自分よりも先に惺が死ぬことを想像していなかった。
そうだ。ずっと自覚していなかったが、たぶん啓は。たぶん、惺よりも自分の方が、絶対に先に死ぬつもりだったのだ。
啓は――――正直に言うと、『ほうかご』で死んでも構わないと思っていた。