惺のためにそうしようと。惺のために『かかり』をして、それで死んでもいいと、それで構わないと本気で思っていた。
直接、惺のために死ぬなら、なお良いと。
そうでなくても、惺が実現したいことのために仕事をして、自分が先に死んで、そして惺に後の全てを任せるつもりだったのだ。
だがもう、それは叶わなくなった。
逆になった。何かあれば、いつでも惺の代わりに自分が死ぬつもりだったのに。
たぶん、その思いのせいで、こんなふうになることが、考えの外になっていたのだ。
自分が代わりになると決めていたから、自分の見ていないところで、代わりになることもできないところで、自分の知らないところで知らないうちに惺が死んでしまうなんて――――そんな展開は想像していなかった。啓は結局、この『無名不思議』という存在の残酷さを、まだまだ軽く見積もっていたのだ。
それは、啓には自覚がなかったが――――全ては啓が、自分の命を軽く見積もっていたことに起因していた。
啓は思っていたのだ。もう自分は、いつ死んでもいい存在だと。
啓にとって本当に大事な人間は、まずは母親と、それから次に惺だけだ。この二人に幸せになってほしい。この二人の望みが叶ってほしい。この二人を悲しませたくない。啓が自分の人生で最終的に望んでいることは、それだけだった。
母親の許をできるだけ早く去ることは、啓の最終目標だった。
自分は母親の負担になっている。自分がいるせいで母親の生活は苦しいままだし、子供がいては、身の振り方は限られる。
母親の自由と幸せを一番妨げている存在は自分。だからできるだけ早く母親の許を離れることが母親のためになる。そのためには、死ぬのが最も早い。だが、それは母親を悲しませることになるとも分かっていた。
悲しませたくはないのだ。
だから残る手段として、できるだけ早く経済的に自立することを目指していた。
しかも将来の全てをあきらめて働きに出るような形ではなく、ちゃんと幸せに自立する。少なくともそう見える形で。そして他には何も持っていない啓にとって、絵はそのための、最良の手段だった。
だった。今はもう、そうではない。
啓は、『かかり』に選ばれて、『ほうかご』に招かれた。そして、『ほうかご』で死んだ真絢の存在が〝消えた〟のを見た時。現実から、みんなの記憶から〝存在そのもの消えた〟のを見た時――――啓はそこに、〝希望〟を見つけてしまったのだ。
もっと最良の〝救い〟を。
自分の存在が消える。忘れられる。それなら――――母親を悲しませることがない。
その〝死〟が惺のためのものならば、もう言うことはない。だから啓は決めた。積極的に『かかり』に取り組むことを。惺に協力しようと。惺の目標のために、死のうと。
そして、母親を解放するのだ。
本当に本当の、ようやく見つけた最良の手段。
つまり啓が『ほうかごがかり』として死ぬことで。
お母さんを重石から解放し、惺の目的も叶え――――それによって啓にとってのたった二人の大事な人を、幸せにするのだ。
なのに。
それなのに。
「………………」
啓は、自分の目の端に涙が浮かんだのを感じて、それを拳で、乱暴にぬぐった。
そして、決然と顔を上げた。
その様子。
その表情。
それを見た菊が、逆に不安そうに啓の名前を呼んで、小さく服の裾を引っ張る。
「に、二森くん……?」
「前に進もう」
菊を振り返らずに、啓は言った。
「『かかりのしごと』をしよう。惺に何があったのか、調べよう。なんで惺が死んだのか、惺を殺したやつを『記録』しよう。そうしないと、惺が本当に犬死にになる」
言う。
決然と。
前を向いて。
だがその啓の目は前を向きつつも、前を見ていなかった。
「二森くん……」
どこか暗い奈落を見ていた。菊は明らかにそれに気づいていたが、何か言おうとしてしばし躊躇ったあと、それを吞みこんで、何も言わなかった。
啓が言葉を向けた相手である『太郎さん』は、しばらく無言でいた。
だが、やがて背を向けたまま、口を開いた。
「……僕のセリフだ、それは」
ぼそりとつぶやく。そして言う。
「『かかり』が顧問である僕のセリフを取って、何様のつもりだ。キミは余計なことを言わずに『しごと』をすればいいんだ。どうせこの『ほうかご』に呼ばれた時点で、キミらにはそうする以外の道なんかない。ま、やる気になったならいいことだけどね。さっさと始めようじゃないか」
徐々に、いつものように皮肉げに、調子を取り戻して、決して振り返らないまま。
啓がすぐさま問いかけた。
「惺に何があったか、分かるか?」
「分かるわけないだろ。情報が足りない」
こちらもすぐさま、ばっさりと答える『太郎さん』。
「少なくとも小嶋君の『日誌』には、何も兆候はなかった」
そして机の上から、ファイルを取り上げる。
「ずっとそれなりに真面目に書いてて、異常はなかった。急に何かあったのか、それとも嘘を書いてたのか」
どうやらつい先刻まで確認していたらしい留希の『日誌』。それを机の上に、啓たちに見えるように、ばさ、と放り出す。
「小嶋君らしき『何か』の様子は、一応、堂島さんから聞いたけどな」
そう言って、『太郎さん』は啓たちの反応を窺うように、半分ほど振り返る。
「顔面に穴が空いてたんだろ? 他に何かあるか? 追いかけられたみたいだが? 何か手がかりになるようなことに気づいたりしたか?」
そして訊ねる。
啓が答えた。
「顔に穴が空いて目がなかったけど、前は見えてたみたいだ。でも様子からすると、完全には見えてない感じがした」
「ふうん?」
「たぶん、ものすごく視界が狭くて、死角が多いんじゃないかと思った。足元はほとんど見えてない気がする。あと、音もあんまり聞こえてないかも。僕が声をかけるまで、かなり近くに行っても、僕が近づいてることに気がつかなかった」
「……なるほど?」
あの危機的状況でも発揮された観察力によって、記憶した内容を思い出しながら、答える啓。それを聞きながら『太郎さん」は、真っ白な髪の中にキャップをした万年筆を突っ込んでがりがりと頭をかいて、難問に挑む羽目になった面倒くさがりの安楽椅子探偵のように、難しそうにうめく。
「他には?」
「他には……」
啓も難しい表情をして言いよどみ、それから後ろを振り返った。
後ろの床に目を向ける。そこには啓が持ち込んだ、あの裏庭に落ちていたのを拾った、水色のランドセルと手さげ袋があった。
「手がかりになるかは分からないけど……あんなのを拾った」
「うん?」
その言葉に、本格的に振り返る『太郎さん』。
「バッグに、小嶋君の名前が書いてある。たぶんだけど、ランドセルも」
「……ふん」
それを近くに持ってくるよう指示し、それからしばらくいぶかしげにそれらを眺めた『太郎さん』は、やがてひとつうなずくと、万年筆で指し示して、開けて中身を調べるよう、改めて二人に向けて指示した。