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「――――この小さい字を書いたのが、『こちょこちょおばけ』と仮定してだな」
長い時間をかけてボロボロのノートを精読した『太郎さん』は、啓と菊が完全に待ちくたびれた頃になって、ようやく口を開いた。
「……なにか分かったのか?」
「こいつが小嶋君の顔に大穴を空けて『何か』に変えて、緒方君を死なせて、他にも怪我人を出して暴れたとするなら――――このボロ紙に書いてある内容から経緯を読み取って推理すると、たぶんこいつは『憑物』の一種だ」
顔を上げた啓に、背を向けたまま『太郎さん』は言う。たった今まで暇をつぶしてスケッチブックに鉛筆を走らせていた啓は、同じくスケッチブックを覗き込んでいた菊と顔を見合わせて、互いに分からないことを確認し、それからいぶかしげに訊ねた。
「……『つきもの』?」
ただの小学生には、覚えのない単語。
「なんだそれ?」
「ざっくり言うとだな、昔の人間が信じてて恐れてた、人に取り憑いて悪さをする、動物なんかの霊のことだ。狐、犬神、蛇なんかが代表で、呪法で作ったり、特定の家系に取り憑いてると言われて、日本中で信じられてたし、実は似たような迷信が世界中にある」
まだノートを解読しながら、声だけ向けて答える『太郎さん』。啓はあまり理解できないといった様子で聞いていたが、次に『太郎さん』が言った言葉を聞くと、眉を寄せて、スケッチブックを閉じた。
「日本では、そういうのが取り憑いてる家系は『憑物筋』と言って、忌み嫌われてた」
「……嫌われてた?」
引っかかったのは、そこだ。
それに『太郎さん』は答える。
「そうだよ。その霊が周りから財産を盗んでるんだとか、周りの人間に不幸を与えてるとか言われて差別されてたんだ」
「……」
その答えに、啓の眉がますます寄る。啓は理不尽が嫌いだ。もちろん、いわれのない差別のようなものも、それに含まれる。
「まあ古い村社会の特有の差別だけど、ただそれだけだと言い切ってしまうのも微妙で、実は同じような迷信が世界中にあるんだ。ある程度くわしく知ってるやつだと中国の古い俗信にほとんど同じものがあって、同じような呪法で作る小動物の霊のことを『蠱』、それが憑いてる家を『放蠱の家』とか呼んでたらしい。
それからたぶん、ヨーロッパの『魔女狩り』で狩られた魔女も、元はそれの一種だったんだと思う。魔女は漫画に出てくるようなのとは違って、伝統的には悪魔を使って他人の家の麦とか、牛のミルクを盗むとか言われてて、村の差別の対象だった。同じだろ?
で、だ。この『憑物筋』で重要なのは、その家の人間が他人を恨んだり妬んだりすると、その憑いてる霊が勝手に相手のところまで行って取り憑く、と言われてることだな。それで、そうやって『憑物筋』に恨まれて体に霊が入った相手は、頭がおかしくなって異常な行動をしたり、不審な死に方をしたりするんだ。それで恐れられてた」
そして、『太郎さん』は言う。
「で、この伝説の一部が言うには――――そうやって狐に、『憑物』に殺された人間は、体に穴が空いてるんだそうだ」
「!!」
その説明で、啓の顔色が変わった。
菊も顔色を悪くした。あの『留希』の姿を、直接見たもの同士。
「狐が穴を空けて体の中に入って、中身を食い荒らして出た痕なんだとさ」
「……!」
「それから、だいたいこの手の『憑物』は、狭い穴のような物の中を棲家にしてる。竹筒とか茶筒とかの中に住んでて、壁の小さな節穴を通って、戸締りされた家や部屋を自由に出入りするんだ」
「…………」
説明を聞く二人の脳裏にありありと浮かんでいるのは、あの『留希』の顔に空いていた大きな穴。その穴が本物ならば、絶対に生きてなどいないのに、しかし抜け殻のようにぼんやりと廊下に立って、そして歩いていた、あの『留希』の姿。
啓を走って追いかけてきた、あの姿。
あの顔に空いた、黒々とした穴から、留希の中身が食い荒らされていて、空っぽになったその中に、何かがいるのだという想像。
あの中に。
いる。狐が。いや、『こちょこちょおばけ』が。
中身を食い荒らして、その身体を操る得体の知れない存在が。
顔を青くしている二人に、『太郎さん』は続けて言うのだった。
「でだ、その『憑物』だけどな。憑いてる本人には、制御できない」
「……!?」
「『憑物』は勝手に行動する。主人の意思を勝手に汲み取って、よかれと思って、勝手に周りから盗んで、周りに取り憑いて、狂わせて、殺すんだ。それがどれだけ嫌でも、迷惑でも、主人である『憑物筋』はどうにもできない。『憑物』は言うことを聞かないし、捨てることもできない。先祖から伝わってる通り、祀って拝んで現状維持することしかできないんだ。そうしないと『憑物』の牙が自分に向く。家は破滅し、家族も自分も次々と取り憑かれて、頭がおかしくなったり、食い殺されて死ぬ羽目になる」
「…………!」
その凄惨な説明に、言葉もない啓と菊。少しの沈黙の後、それでも啓が、重苦しく沈んだ声で、『太郎さん』に向けて訊ねた。
「……なんでそんなものが、学校に?」
その疑問。
「なんで小嶋君が? 小嶋君がその『憑物筋』だったってことか?」
「あー……その可能性はゼロじゃないけど、たぶん違うだろうな。『無名不思議』は〝現代の怪異の雛〟で、現代の怪異も、学校の怪談も、まったく新しいものばっかりじゃなくて、古い伝承の要素を引き継いでるものがたくさんあるから、当然そういうものも含まれてる。それだけのことだろう」
「……」
肯定されたとしても理不尽なその疑問に、『太郎さん』は否定の見解を返した。
想定される答えの中で、たぶん一番理不尽な答え。たまたまそんな酷いものが発生して、たまたま留希が担当になってしまったということ。そして――――
「このボロ紙がどうしてこんなことになってんのかは分からないけど、どうも小嶋君は、このノートを介して『こちょこちょおばけ』とやり取りをしてたみたいだな」
「……」
また押し黙ってしまった啓に、『太郎さん』はそう言って、手にしていたボロボロの紙束を振って見せた。
「見る限り、どうやら『おばけ』とお友達になって、こっそりよろしくやってたみたいだ。少なくとも小嶋君は、そのつもりだった」
そして、はっ、と皮肉げに、短く笑った。
「それで――――最後に裏切られたってわけだ。そこまでやるとは思っていないことをやられたとか、頼めば止めてくれると思っていたのに止まらなかったとか、そんなところだろう。この〝交換日記〟から読み取れた、ただの推理だけど、それほど外してないと思う。だいたいそんな感じのことが小嶋君に起こったんだ。手に取るように分かるよ。
僕は『かかり』を何十人も見てきたし、記録はその何倍も見てるんだ。キミらも心にしっかり刻んどくといい。『無名不思議』が、人間と同じ理屈を持ってるわけがない。『憑物』がそうなようにな。ただそう見えるように振る舞うタチの悪い奴と、野生動物に人間の理屈を当てはめるみたいに、そう勘違いする間抜けがいるだけで、どうやら小嶋君はその両方だった。珍しくもない話だけど、まあ酷い話だよ」
「……」
無言の啓と菊。
そんな二人にそこまで言って、『太郎さん』は小さく振り返る。
顔のほとんどは長く伸びた白髪に隠れていたが、そこからわずかに覗く口元は、引きつるように笑っていた。その引きつれに引っ張られるようにして、声が、ほんの、ほんのかすかに震えていた。
「それに巻き込まれて――――助けようとして、緒方君は死んだんだろうさ」
「………………」
そして、その声で、『太郎さん』は、そう言った。
そう締めくくった。
説明は、それで終わった。
重い、重い沈黙が、後に落ちた。
それは、『太郎さん』の言葉によって改めて突きつけられた、よく知る仲間を、親友を、あまりにもあっけなく喪った絶望の重さだった。
理不尽。怒り。悲しみ。
そしていきなり二人も、何よりも一番頼りにしていた仲間を、しかも全てを率先して采配していたリーダーを喪って、これからどうすればいいのかという、何の手がかりもない深くて恐ろしい暗闇の真っ只中に突然放り出された、もはや呆然とするしかない虚無の重さ。
そんな虚無の沈黙が、急に広く感じるようになった『開かずの間』に、また広がる。
時間がひどく長く感じる。そのあいだ部屋に満ちていたこの沈黙には、いつ誰がこの場で泣き出しても、あるいは叫び出してもおかしくない、今までかろうじて保っていた正気と安定が決壊する、その寸前の、危うい空気があった。
諦めが。絶望が。
何か小さなきっかけの一つでもあれば、たちまちそれらがあふれるという危うさが。
押さえ込んでいたそれらがあふれ出し、すぐさま全てを崩壊させる。
そんな危うい気配を、色濃く孕んだ空気。
だが――――