「……だったら、それは無駄にできないよな」
その沈黙を破ったのは、啓の、そんな言葉だった。
落ち着いた、いや、感情を低く押し殺した言葉。それはつい先刻、『前に進もう』という言葉と共に啓が見せた時のまま、寸毫も変わらない、こんな状況においてなお、決然とした態度だった。
「惺がそうしようと思ったんだ。そうしようと思って、そうしたんだ」
啓は、言う。
「みんなの助けになりたいって惺は言ってた。だったら僕の知ってる惺は、絶対にそうするはずだし、そうしたんだろう」
言いながら、啓は近くの棚に向けて歩いてゆく。そして棚を見つめる。『太郎さん』にも菊にも背中を向けて。
「惺は、後悔してないはずだ」
そして、ひときわ強く、そう言った。
「だったら、僕が惺にしてやれるのは、してやらなきゃいけないのは、それを悲しむことじゃない。無駄にしないことだ」
啓は、棚に並んでいる無数の『記録』を、指でなぞって言った。
「僕が、惺のやろうとしたことを、引き継がなきゃいけない。惺が――――惺が死んだ、ことを、無駄に、しないために」
「……っ」
菊が、声を殺して泣く気配がした。啓は振り返らない。自分の顔を見られないように。またしばし沈黙する。だがその沈黙は、今度は短かった。啓の言うことを黙って聞いていた『太郎さん』が、口を開いたのだ。
「…………ほんとに、あれがやってたことを引き継ぐのか?」
その質問。
「は?」
そんな質問をされる意味が分からなかったが、啓は答える。肯定した。
「ああ……引き継ぐよ」
「そうなのか。じゃあ渡すものがある」
啓の答えを聞いた『太郎さん』は、そう言うと、自分の座っている机の上を、おもむろに漁りはじめた。その様子を不思議に思った啓が思わず振り返ると、『太郎さん』は積んであった紐綴じファイルの中から一冊を出して、開き、その『日誌』の中に挟んであったメモ書きの紙片を一枚取り出した。
「これ」
そして振り返り、啓に差し出す。
「……これは?」
「緒方君に何かあったら、次の人に渡すように預かってた」
虚をつかれたように思わず受け取った啓に、そう説明する『太郎さん』。見るとメモ書きには連絡先が書いてあった。住所と電話番号と名前。まぎれもない惺の字。
知らない名前だった。
啓は言葉を漏らした。
「……誰だ?」
その疑問のつぶやきに、メモを渡した『太郎さん』は、さらりと、しかし啓にとっては衝撃的な言葉を一言で返した。
「七人目の『かかり』だよ」
「はあ!?」
ばっ、とメモから顔を上げた。
視線を向けた先で『太郎さん』は、もうメモを渡したことで、このことからは関心をなくしたかのように、顔を机の方へ戻していた。
啓。惺。菊。留希。イルマ。真絢。そして『太郎さん』。
「七人目!? いや、もう七人だろ?」
驚いて言った啓に、しかし『太郎さん』は素っ気なく、こう答えた。
「それ、僕も入ってるだろ」
「え」
続けて言った。
「僕は七人の『かかり』じゃない。化物側だよ。『ほうかご』から出られなくて何十年もここにいるようなのが、もう人間側なわけないだろ」
「……!」
その言葉に。啓は言葉を失った。
「他にちゃんといるんだよ、〝七人目〟が」
言う『太郎さん』。
「去年から『かかり』をやってて、ずっとここに来てないやつが、もう一人いるんだ。キミが知らなかっただけで」
聞き捨てならないことを啓は聞いた。
「は? ここに、来てない……?」
「そうだよ。サボりだ。伝言するように言われてる。緒方君の『しごと』を引き継ぐことになるやつは、そいつに連絡するように、ってさ」
啓は衝撃を受けて、もう一度メモに目を落とした。
メモに書かれた名前。
覚えがない、その名前。
啓は、その名前を見つめて。
遠藤由加志
あまりにも目まぐるしく、全く想像もしていなかった展開に混乱しながら、しかしこんな時のためにも準備をしていた惺のことを思って――――黙って残されたメモの字を、じっと見つめ続けたのだった。