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「えーと……そういやまだ、ちゃんと言ってなかったと思うけど、おれは遠藤由加志。あんたらと同じ六年。『かかり』は二年目。全然行ってないけど」
少し緊迫していた場が、なんとか落ち着いて。
啓と菊の二人を前に、自分の部屋だというのに妙に居ずらそうにしながら、由加志があらためて、そう自己紹介した。
「で、担当してる『無名不思議』は――――『開かずの間』」
「!」
そして、続けて言ったその言葉に、驚く啓。
啓にとって、『開かずの間』と言われて思いつく場所は、一つしかなかった。
「……あの『開かずの間』か?」
「そう。あの『開かずの間』」
訊ねた啓に、由加志はうなずいて答えた。
「よく考えたら分かると思うけど、もちろんあの部屋も『無名不思議』なんだよ」
「……」
言われてみるとその通りだ。かつて『かかり』だった『太郎さん』が、何者かに足をつかまれて閉じ込められている部屋。『ほうかご』ではああして開いているが、昼の学校では開ける方法がなく、誰も中を知らない部屋。そしてまさに、それによって先生からも怪談として語られている。
だが、
「そんなこと、『太郎さん』は言ってなかった……」
「口止めされてたんだと思うよ。緒方君に」
思わず口にした啓の言葉に、由加志は言う。
「次に会ったら訊いてみればいいんじゃないか?」
「……」
そうしていると、視線を感じて、横を見た。
菊が、何かを言おうとしているように啓の顔を見ていた。そして菊がそれを口にするまでもなく、啓にはその内容が分かった。
由加志の言っていることを、肯定しているのだ。菊自身も、口止めをされていた。
そして、多分、由加志の言っている『太郎さん』への口止めも、直接見て知っている。
啓は、それらの伝えたいことを瞬時に察して、何も言いはしなかったが、うなずきだけで、伝わったという返答の代わりにした。
「……」
「まあ、そんなわけで、あの『開かずの間』は『無名不思議』の一つで、おれが担当」
由加志は改めて、続けた。
「たぶん『無名不思議』は担当の『かかり』の人生とどっかで繋がりがあって、おれが引きこもり予備軍だったから、その関係で選ばれたんだと思う。で、たぶんだけど、おれは当たりを引いてる。他の奴らと比べたら、めちゃめちゃ安全なんだよ、あの『開かずの間』。あの部屋はずっと昔からあって、毎年担当がいるんだけど、ほとんどみんな無事に『卒業』してるっぽい。実際、当たりだって、『太郎さん』にも言われたよ」
自分の語る実情に、しかし由加志は、明らかに不満そうだった。
「……でも、おれはどうにかして回避したくてさ」
由加志は言う。
「いくら安全に見えたって、そうやって油断したら、何か条件が合った時、いきなり『太郎さん』と交代して永遠に閉じ込められる羽目になったり、何か他のひどい目にあって死んだりするに決まってるんだ。おれはオカルトには詳しい」
言って、部屋を埋め尽くして積み上がっている、怪しいタイトルのオカルト本を、誇示するように指差して見せた。
「で、おれは詳しいから、あれこれ工夫して、どうにか回避する方法を見つけたんだ」
その言葉に、待ちかねたように、啓は訊ねた。
「……〝回避〟って、どうやるんだ?」
その問い。
何人もが死んだこの理不尽に、決定的なピリオドを打つはずのその問い。複雑で困難な儀式をするのだろうか? 何か大きな代償を払うのだろうか? それとも普通の人間には想像もつかない、あっと叫ぶようなアイデアなのだろうか? 固唾を吞むような思いで質問した啓に対する由加志の答えは、しかしひどく簡単なものだった。
「開かなくすればいいんだ」
「は?」
思わず間の抜けた声が出た。
「あ……開かなく? それだけか?」
「そうだよ。それだけ。金曜日の十二時十二分十二秒に、部屋の中の何かが〝開いて〟、それが『ほうかご』に繋がるんだろ? だったら部屋の中の〝開く〟ものを、全部埋めちまえばいい。鏡から幽霊が出てくるなら、鏡を全部覆えばいいし、角度から化け物が侵入してくるなら、部屋から角度をなくせばいい。簡単な理屈だろ?」
啓には分からない何かの喩えらしきことを言って、由加志は座椅子から立ち上がる。そして床の本を避けながら部屋の壁際まで行って、壁際の本棚の一つに手をかけた。中身が空っぽの本棚に。
「ただ、徹底しないとダメだからな」
そして言った。
「毎週、金曜日の夜になったら、寝る前にドアの前に本棚を置いて、開かなくするんだ。それから中に本をぎっちり並べて重くして、地震対策のワイヤーも壁に引っ掛けて、動かないように固定する。さらに動く場所自体をなくす。棚を動かせる隙間を別の家具で埋める。あっちには本当は窓があるけど、裏返した食器棚を並べて、ギチギチにふさいでる。あれ、壁紙貼って分からなくしてるけど、壁じゃないからな」
言われて見ると、それは確かに壁ではなかった。よくよく見ると上部に隙間があってカーテンレールが垣間見え、そしてその方向は家の表に面していて、大きな掃き出し窓があるはずの場所なのだ。
「鍵かけるのは意味がない。不思議な現象で開けられる」
由加志は、いま部屋の唯一の出入り口になっているドアに触れて軽く叩くと、次に内鍵を回して見せた。
「物理的にふさがなきゃいけない。それを毎週、寝る前にかかさずにやるんだ。ほんの少しでも隙があったら、一発で台無しになる。あと他にも注意しなきゃいけないのは、開いて通り抜けられるものは全部ダメだってこと。押入れもタンスもクローゼットも、戸棚も大きなケースみたいなのも、机の引き出しも、全部ダメだ。ふさぐか取り除かないといけない。
そこまで準備して――――やっと安心できる。夜のあいだずっと、何かがドアとかをガリガリやったり、ドンドン叩いたり呼びかけたりしてくるから、それを無視すれば、無事に『かかり』に行かずに済むようになる」
これでおしまい。由加志はそう言わんばかりに、つい今しがた閉めて見せた内鍵を音を立てて元に戻し、説明を終える。
そして、よい、しょ、と若さのないつぶやきをしながら床の本をまたいで、元の座椅子まで戻る。啓は、菊と共に、その様子を呆然と眺めた。この部屋の、模様替えを途中でやめにしたような惨状が、どうしてこうなっているのか、完全に理解したのだ。
毎週金曜日の夜に、半端な位置の本棚は、由加志の手でドアの前へと動かされる。
そして本棚が移動しかねない隙間を、隅の小さな棚や、空っぽのまま乱雑に積み重ねられているカラーボックスで埋めて、そしてそれから床に積み上げられているこの大量の本を、全て手作業で、棚とカラーボックスに戻す。
そこまでしないと『ほうかご』は拒否できない。
この惨状は、そのためのもの。全てがそのためにある部屋なのだ。
ここは、由加志が小学校に登校するのを拒否して、引きこもった部屋。
そして同時に、由加志が『ほうかご』への登校も拒否して引きこもるための、いわば『開かずの間』を作り出すために、調えられた部屋なのだった。
「徹底すればいいんだよ。おれから見たら、『無名不思議』はどんだけ人智を超えてても、子供を相手にし続けてる子供騙しだ」
座椅子に座った由加志は、ぼそぼそと、伏目がちに言った。
「普通の子供にはできないくらい徹底したら、回避くらいはできるんだ」
目を伏せ、テーブルの上に目を落として、しかし明らかにテーブルではない、どこか地の底のような深い彼方を見ながら。
啓が口を開いた。
「……確かに、そんな簡単なことで、って最初は思った」
じっと考え込んでいた啓は、そう言う。
「でも無理だな。考えれば考えるほど、本当にやろうとしたら難しいと思った。少なくとも僕にはできない。大人に知られずに、親にも、誰にも怪しまれずに、普通に暮らしながら自分の部屋を毎週そんなふうに徹底してふさぐなんて、そんな生活はどうやっても無理だ」
「うん……」
その啓の見解に、同意してうなずく菊。
無理だ。小学生には。
大人ならどうにでもなるかもしれないが、子供には無理だ。特に大人の協力を得られない状態では、どうにもならない。
それこそ、由加志のように不登校の引きこもりになって、親からも世間からも干渉を拒否するくらいしなければ不可能だ。由加志が言って実行したように、安全や命には代えられないのは確かだろうが、それを大人に納得させる方法がないし、普通の生活を捨てることができる小学生に至ってはほぼいない。
徹底。
偶然それができる環境にいたとはいえ、他人も、家族も、自分の生活さえも、自分の安全のために全て捨てたと言っていい由加志。
「…………」
啓は、このサバイバーとでも呼ぶべき痩せた少年を、じっと見た。
惺が存在を秘密にした少年は、ぼそぼそとくぐもった声で、しかし虚勢を張るように時々強い言葉を使いながら、にもかかわらず目の前の啓たちとは目を合わせず、人前で居心地悪そうに、おどおどと視線を彷徨わせていた。