啓は、その光景を前に、つぶやいた。
学校を取り囲む、子供たちの亡霊の輪。これこそが惺の担当だった『無名不思議』で、つけられた名前を『学校わらし』といった。
「『学校わらし』ってのは、まあそのまま、学校に現れる座敷童子みたいなもんだな」
この日、由加志からの引き継ぎの内容を伝えた啓に、『太郎さん』はそう説明した。
「座敷童子は、幸運をもたらすといって有名な、子供の姿をした妖怪だな。子供にしか姿を見ることができないと言われていて、庭で遊んでいる子供たちの中に見知らぬ子供がまざっていたり、寝ているあいだに悪戯をされたり、出会った人は幸運に恵まれるとか、座敷童子が住む家は栄え、去ってしまうと没落するとか言われてるな。
で、学校にも似たようなのが現れるという目撃情報が全国で言われるようになって、それをいつからかまとめて『学校わらし』と呼ぶようになった。校庭で遊んでいると、誰も素性を知らない子供がまぎれこんで一緒に遊んでいるとか、一年生にしか見ることができないとか、肩を叩かれると幸運が続くとか、そんな話がある。
で、その中の一部には、学校で死んだ子供の霊が正体だ、って由来が語られてる。まあ、とにかく『学校わらし』はそういう話で、キミらが見てるような、学校を輪になって取り囲む霊の話じゃない」
そう『太郎さん』は言った。なのに、なぜ、『学校わらし』と名づけられたのか。
啓は、校門の前に立ち、鉄格子の向こうに並んでいる亡霊の少年少女たちの姿を、一人一人見ていた。そしてしばらくして、そばに立っている菊を振り返り、短く訊ねた。
「……どの人?」
「えっと……」
訊ねられた菊は、身を乗り出して、鉄格子の向こうを指差す。
「あの……あの人」
「そっか」
啓は、菊の指差した先にいる、背の高い少女の亡霊を見やって、静かに言った。
「あの人が――――シノさん」
その少女の、名前を。
惺の〝遺書〟にあった名前。この少女は『無名不思議』として、あるいは『ほうかご』の学校の薄気味悪い背景として、無から発生した化け物ではない。彼女は惺と、それから菊とも仲間だった。去年いた『かかり』の、一人だったのだ。
尾垣忍野。
去年の六年生。その、変わり果てた姿。
そして彼女だけではない。ここにいる全員が、そうだ。
何十人、いや、もしかすると百人を超えるかも分からないこの亡霊の輪は、その全員が過去に実在した『かかり』で、そして全員が、『ほうかご』で命を失っていた。
この『無名不思議』――――『学校わらし』を担当する『かかり』は。
正確に言うと、『学校わらし』の記録に少しでもかかわった『かかり』は、必ず誰か一人がその年の最後までに『ほうかご』で命を落とし、この輪の中に加わるのだ。
命と存在を失い、亡霊となって、学校を取り囲む一人になる。
昼の学校からは見ることができない亡霊となって、この『ほうかご』で、もしかすると永遠に、学校を囲んで立ち続けるのだ。
――――この学校から、『無名不思議』を出さないために。
この亡霊の輪がどういうものなのか、過去の記録から分かっていた。この輪の外には、何者であろうも出ることはできないのだ。
出ようとした『かかり』が、阻まれて出られないことは、古くから知られていた。
この『ほうかご』から脱出しようとした『かかり』は、数限りない。その試みの一つとして学校の外に出ることは多くの人間が考えたが、みんなこの亡霊の輪に阻まれて、輪の外側に出ることができた『かかり』は、記録されている限りでは一人も存在しなかった。
最初は、このように理解されていた。
亡霊の輪は、『ほうかご』に『かかり』を閉じ込める『無名不思議』だと。
しかし、やがて代を重ねるうちに、別の事例が記録されるようになる。輪を出ることができないのは『かかり』だけでなく、『無名不思議』も同じだったのだ。
まれに、学校の外に出ようとする『無名不思議』が現れる。
だがそんな怪異も、『かかり』と同じように、亡霊の輪に阻まれて、一体たりとも外に出ることができなかった。
ときおり現れるらしい。教室に留まらず、自由に動き回る『無名不思議』が。
そう、ちょうど今――――まさに校内を徘徊している、あの〝留希〟のような。
「…………」
「! 二森くん……!」
外の暗闇の中に並ぶ亡霊たちを、鉄格子に思い切り顔を近づけて確認している啓に、菊が小声で、しかし切迫した様子で声をかけた。
「足音がするかも……」
門の外を見ている啓の代わりに、周りの様子を見張っていた菊。耳をすますと、広がっている暗闇と静寂の中に、かすかに足音が聞こえた気がして――――菊は〝留希〟が近づいているかもしれないと、ここを立ち去った方がいいと、声をかけた。
だが。
「いない」
啓は言った。急に。
「えっ」
「ちょっと待っててくれ」
今までなかった執着を見せて、啓は門の外に目をやったまま、そこを動かなかった。
「に……二森くん?」
「もうちょっと。まだ全員、確認してないから、もう少し……」
鉄格子に張りついて、必死に、見える限りの亡霊の容姿を、全て検めようとする啓。菊はその様子を見て一瞬ためらったが、その沈黙のあいだに、聞こえた気がした足音に間違いないことを確信して、慌てて啓の袖をつまんで引っ張り、首を横に振った。
「二森くん、いないよ」
「!」
啓が、びくっ、とその言葉に反応した。
「たぶん、緒方くんはその中にいないよ。だから、もう行こ?」
啓が何を探しているのか、菊は知っていた。だから菊は言う。答えずに、門の鉄格子をつかむ啓。その表情は菊からは見えなかったが、それでも菊は構わずに、続ける。
「言ってたよね、新しい人は絶対に、門の前に来るって」
「……!」
「前のシノさんもそうだったし、前の人も、その前の人もそうだった、って……それに、緒方くんにはお葬式があったよ。緒方くんが死んだのは『ここ』じゃない。だから、たぶん、どれだけ探しても、緒方くんはきっと、ここにはいないよ……」
ためらいつつも、しかしはっきりと言い聞かせるように、菊は言う。啓は、菊に背を向けたまま、『いる』と張り紙が貼られた鉄格子を強く握りしめ、深くうつむいて、外に音が聞こえるほど、歯を食いしばる。
「だから、ね?」
「…………!」
「行こ?」
「………………っ!」
説得する。啓は諦めきれない様子でそこを動かずにいたが、やがて未練もあらわに、それでも鉄格子から手を離す。
そして、振り切るように、門に背を向けて。
「…………わかった」
「うん……ごめんね……」
表情を見せずに歩き出す啓に、菊は思わず謝って、それから立ち去る啓の背中に、小走りに続いていった。