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十九回目。
二十回目。
二十一回目。
正門で。
屋上で。
あちこちの廊下で。
階段で。
啓は校内を徘徊する〝留希〟を避けながら、延々と移動を繰り返して、校内のスケッチを繰り返していた。
学校と、『無名不思議』のスケッチを。
校内に存在する、全ての景色と『無名不思議』を写し取ろうとするかのようにだ。
啓の思いは、固まっていた。
昏く。重く。
怒りがあった。いずれ『学校の七不思議』の全てを描いてやりたいと、昏く、重く、固く、心の中で思っていた。
啓から惺を、そして惺が守ろうとしたもの全てを奪いつつある『学校の七不思議』を。
全て、どうにかしてやりたかった。啓のできる限り。画用紙の中に閉じ込めて、塗り固めてやりたかった。
大手を振ってあれらが自由にしているなど、許せなかった。
絶対に許せなかった。この日から啓の生活から費やせるものは、全て、残らず、そのために振り向けられた。
そのためだけに啓は生活した。全てを振り向けた。
時間。画材。技術。思考と思索と、そして――――苦悩。
全てをだ。鬼気迫るほどに。それはかつて『まっかっかさん』を描いていた時とよく似ていたが、それ以上に凄絶だった。
夏休みに入って、学校の授業がない、その空いた時間が、ほぼ全て使われた。
部屋がみるみる荒れた。数えきれないほどのスケッチが、下描きが、習作が、失敗作が数限りなく描かれて、スケッチブックから破り取られた凄まじい数のそれらが部屋の壁に貼りつけられ、立てかけられ、床に並べられ、あるいは打ち捨てられて、積み上がった。
部屋がコラージュのようになっていた。めくるめく、目眩がしそうなほどの、一面を埋め尽くす世界の細片のモザイク。切り刻まれて撒き散らされた、『ほうかご』という名の暗黒の世界。そしてそれは、啓の頭の中そのものだった。
いまや、『ほうかご』のほとんどの景色と『無名不思議』が、啓のスケッチブックと、頭の中にあった。
夏休みの全てを使って、啓は『ほうかご』を巡り、目にしながら直接、あるいは後で記憶から、あらゆる光景を、スケッチブックに描き写していたのだ。
そしてそれらを並べ、眺め、反芻し、考える。
啓は目標を決めていた。
この『ほうかご』という、啓と惺と、その他の現在過去未来の全ての子供たちから、ただただ無慈悲に奪い続けるこの絶対的な理不尽に対してできる最大の反抗を、どうするべきか、啓はすでに決めていた。
一枚の絵に仕上げるのだ。
膨大なスケッチを、膨大な『ほうかご』を、一枚の絵につづり合わせる。啓はそのためにいま全てを費やしていた。スケッチを描き、並べ、選び、破棄し、描き直し、頭の中で悪夢のようなパッチワークを構想し続けた。
部屋の隅のイーゼルには、まだ何も描かれていない、大きな油絵のキャンバス。
かたわらに予備もある。啓が抱えられるギリギリの、幅が六十センチを超える、この風景画向け比率の15号キャンバスは、この絵を描くために、わざわざ買ったものだ。
由加志が惺から引き継いだ、絵の販売の売り上げからだ。
そのお金からの貯金も一旦はたいて、新しい画材も買った。絵具に、油に、筆。せめてそれだけでも、惺と一緒に戦うために。
啓は、スケッチをちりばめた――――いや、そんな言葉で表現するにはあまりにも密度と情念のこもった部屋の真ん中に座りこみ、まばたきもせずに目を開けて、じっと思考とイメージの深淵に身を沈め続けた。
寸暇を惜しんで瞑想する修行僧のように思索し、ときおり並べたスケッチを入れ替え、あるいは描き加え、描き直し、捨てては新しいスケッチを描いた。
連日。毎日。幽鬼のような表情で。
その様子を母親には見せないよう、母親が仕事に出かけた後の家で。
菊は、そんな啓に『ほうかご』で協力しつつ、毎日のように啓の家まで、様子を見に訪ねてきていた。
大半の時間、無言か、独り言をつぶやきながら構想を続けるだけの啓といても退屈なだけに違いなかっただろうが、菊は持ってきた宿題や読書などをしながら、啓の様子を見守り、ときおり頼まれる雑用に応じていた。
菊は啓の心身を心配していたが、啓を止めようとはしなかった。
「ずっと見てても退屈だろ。付き合わなくていいよ」
「ううん、少しでも協力したい。わたしも、緒方くんのカタキは取りたいと思ってるから」
一度だけ啓は訊ねてみたが、菊の答えはそれだった。
「わたし、役立たずだったから……少しでも、なんでもいいから、役に立ちたい。わたしも二森くんも、いつ死ぬか分からないから。もし何もしないで二森くんが死んじゃったら、去年みたいに絶対後悔すると思うから……」
そう言われて、啓もわざわざ拒むことはしなかった。助かるのも確かだった。菊はお昼になると訪ねてきて、啓が食事をとったか確認し、必要なら買い出しも引き受けたが、啓だけならば忘れるか無視するだろうことが目に見えていたからだ。