その正面の壁には、黒い穴が空いていた。
それだけではなかった。全て。そう広くもない啓の部屋の中は、座り込んだ啓を中心に壁も床も天井も空間も、ほとんど隙間なく、まるで異次元の病変のように、折り重なるようにしてひしめく無数の怪異に覆い尽くされていた。
壁が、床が、天井が、異形と化していた。部屋は、周囲は、視界は、真っ黒な黒い穴に、ケタケタと笑う子供の描いた肖像画に、歩き回る赤い靴に、ねじくれた樹皮のように絡みあった無数の腕に、ありもしない学校の扉や窓に、そこから覗きこむ人影や子供の顔や毒々しい色をした怪物に、並んでぶら下がった二つの血みどろの赤い袋に――――それからその他の無数の異形の存在によって、パッチワークのように覆われていたのだ。
おぞましい怪異のパッチワークが、怪談のコラージュが、部屋を完全に侵食していた。
視界を切り刻まれているかのように統一性も脈絡もない景色と、それらの立てる混沌とした音に取り囲まれて、部屋は狂おしい様相と化していた。そしてこれらは、菊が家にいた時からずっとこうなっていた。この正気を失いそうな、いや、もしかするとすでに失ったかのような光景は。啓以外には見ることも聞くこともできないのだ。
眩暈がしそうな崩壊した景色が、音を立てていた。
足音がする。話し声がする。泣き声がする。笑い声がする。物音がする。ピアノの音がする。チャイムの音がする。水のしたたる音がする。
ノイズがする。何人もの人の声が、耳元でささやく声がする。
鼓膜に息を吹きかけられたかのような、詰まったような感覚がする。めくるめく音と、めちゃくちゃな視界によって、感覚がおかしくなり、頭がおかしくなる。
そして、そんな啓の前に、赤い足が立った。
かすかに輪郭のぶれた、赤い靴と足。赤いズボンと上着とシャツ。
そして。
かき切られた喉と――――引きつったように笑った、啓の口。
目の前に立って、啓を見下ろし、そして笑った、『まっかっかさん』の姿。
「…………」
じっと、無言で、啓は見つめた。
きっと、いずれ自分は殺されるだろう。確信があった。
確信しながら、啓は眉を寄せ、目の前の『まっかっかさん』に手を伸ばし、腕を振って払いのけた。
「どけよ」
そして言った。
「そこに立たれたら、見えないだろ」
4
夏休み最終日。
明日にはまた、学校が始まる日。
そんな日の、しかし、だからといって普段と変わらない朝。母親の用意したトーストとヨーグルトの朝食をこの日も黙々と食べていると、出勤前で忙しくしている母親が、珍しい様子で話しかけてきた。
「啓……明日から学校でしょ。大丈夫?」
どこか、心配そうな様子。
啓は胡乱げに、そして、少しの警戒と共に顔を上げて、母親に答えて訊き返した。
「大丈夫、って、何が?」
「なんか最近、疲れてるみたいに見えるから。気のせい?」
そう言われて、啓はきょとんとした表情をする。作った表情だ。そんなこと初めて言われたと、気づかなかったと、そんな主張の表情。
「気のせいじゃないかな」
そして言う。
「なにもないよ」
「そう? だったらいいけど……ほら……」
煮え切らない様子の母。啓は首をかしげる。
「なに?」
「えーと、ほら、あの…………緒方君のこと、あったじゃない?」
「!」
「緒方君があんなことになって、お葬式に行った後くらいから、ずっと啓の様子が少し変に見えて……心が疲れてるみたいに見えたから、学校に行くのは、大丈夫なのかな、って思ったの……」
言いづらそうな母の言葉に、啓は自分が思っていたよりもショックを受けていた。
そして、そんな自分にも、啓はショックを受けていた。啓は母親に『ほうかご』のことを何も知らせないために、どんな会話があったとしても、心を殺して知らない顔をする覚悟を決めていたからだ。
二重にショックがあった。母親に言われて、自分の心が動いたこと。
それから、今まで何もないふりをしていたのに、何か普通ではないようだと、母親に気づかれていたこと。
そして思い出した。
今まで、あまり思い出さないようにしていた光景を。
惺の葬式。