夏休み中に惺の葬式があり、啓のような子供同士の知り合いのために、お別れ会の時間が作られていて、啓はそれに、母に連れられて参加したのだ。
お別れ会のことを母から伝えられた時、啓は反射的に「行かない」と言ったのだが、母は啓のための正装を用意して、わざわざ仕事を抜けて啓を連れ出した。元々、大人の目のあるところで、『ほうかご』にかかわる惺の死に向き合いたくないという、反射的とも本能的ともつかない拒否にすぎなかったので、そこまでされて抵抗はしなかった。
式は盛大だった。テレビでしか見ない、著名人の葬式のようだった。
明るく広いセレモニーホールが、盛大に厳粛に飾り付けられ、大人も子供もたくさんの人がいて、みんなが悲しんでいた。
すでに心が潰れていた啓は、その光景を前にして、奇妙なくらい実感がなかった。
ここで悲しんでいるみんなの仲間に、自分が入れてもらえるという気がしなかった。感じたのは惺が遠くへ行ったという実感だけ。そして自分の着ている新しい正装の値段を思って、母親に申し訳ないという気持ちが、頭の端に浮かんでいた。
会場に、涙を浮かべて、参列した一人一人に挨拶をしている、惺のお母さんがいた。
啓とも互いに顔を知っていて、声をかけられたが、啓は目を伏せるばかりで、何と言って答えればいいのか分からなかった。
惺の死が、大人たちの中でどういう形になっているのか、啓は知らない。あまり話してボロが出ないように、あまり詮索しないようにしていたからだ。
だがそうなると、子供に知れることはあまりにも限られていた。だから、表でどんな事件として扱われたのか全く分からず、しかし惺が『無名不思議』によって死んだという〝真実〟を知っている啓は、そのことで惺のお母さんに対してひどい負い目を感じた。
盛大な葬式が、飾り付けが、照明が、自分を責めているように感じた。
そしてそんなセレモニーホールの光の中で、啓は『ほうかご』の校庭で行った、真っ暗な空の下の、真絢とイルマの葬送を思い出していた。
暗くて、粗末な、あの弔いを。
そして、いま大勢の人たちが悲しんでいるのとは違い、たった数人の自分たちしか見送る人がおらず、さらに家族からもクラスメイトからも忘れられてしまって、弔われることさえなく存在が消えてしまった、みんなのことをだ。
あまりにも寂しい、最後を。
たった十年と少しで未来を断たれ、そしてたったそれだけの生きてきた証すらも、何もかも全て消えてしまったあの子たちのことを。
だから思った。
惺は、きっと、これでよかったのだと。
そして啓は、惺とは違う方の仲間入りをする。それを望んでいた。そして思った。自分がそれを望んでいる以上に、自分にはそれが相応しいのだ、と。
惺のお母さんに何も言うことができない自分には、光の中で弔われる資格はない。
そして心から悲しみながらここに立っている惺のお母さんを見て、思ったのだ。自分の母親には、こんな顔をさせるのは嫌だ、と。
自分は消える。六年生の終わりまでに。
だから、できるだけそれまでの間、母親には不審を感じさせたくはない。
何の不安もなく、ずっと普通の日常を過ごして。
そしてある日、何の前触れもなく、唐突に、自分の存在がなくなるのがいい。
それが理想。
だから。
「…………」
少し不審に思われていたという事実と、急に振られた惺の話で、動揺しそうになった自分の態度を、啓は一瞬で、必死で立て直した。
まず思い出した。過去の自分を。
かつて裏で父親に酷い嫌がらせをされて、その意味も理由も悪意も理解できないまま、ただとにかく母親には知られてはいけないとひた隠しにしていた、幼い頃の自分を己の中に呼び戻した。
そして、その自分に、表情を作らせて、言わせた。
「大丈夫。なにもないよ」
「そう……?」
「今、どうしても描きたいけど難しい絵に集中してるから、疲れてるのはそうかも」
本当ではないが、全くの嘘でもない理由をつける。母は、啓の絵にかかわることには、あまり反対しない。だからそれを前面に立てる。
「今まで描いたことのない感じの絵で、すごく悩んでる。でも完成させたくて」
「そう。それならいいんだけど……」
母は、半分くらい納得した様子で、そしてもう半分は出勤時間に追われて、この話を切り上げる。
「でも、体を壊すような根のつめ方はしないでよ?」
「わかってる」
トートバッグを肩にかけながら、心配そうに言う母。
啓は素直に返事をした。いつもそうしているように。
いつもと変わらない表情で、母を見る。
その真横に、赤い袋が吊り下がっていた。
部屋の壁に穴があった。
視界の端に見える洗面所の鏡が、赤紫色に光っていた。
耳元で、ぼそぼそと『まっかっかさん』がささやく。
「――――――――」
上手く聞き取れない、うわごとのような言葉。しかしそれは聞き取れないにもかかわらず精神に毒のように染みこんできて、啓は母親に気づかれないように、そしらぬ顔をして、テーブルの下で左手を強く握りしめた。
薬指の爪が、手のひらに突き刺さる。
剣の切っ先のように尖らせて切った薬指の爪が、手のひらの皮膚をぶつりと破り、中へと食い込んで、肉の内側に触れられた神経が、痛みで灼熱した。
「行ってらっしゃい」
啓は言った。何事もないかのように。
左手の手のひらに、ぎりぎりと、力の限りに爪を突き刺しながら。
「うん、じゃあ、行ってくるね」
玄関でせわしなく靴を履きながら、母が言った。
「ごめんね、お皿、片づけといてね。それから明日の学校の準備も」
「わかってる」
啓は答えた。そしてテーブルについたまま母親を見送り、耳を澄ませても足音が聞こえなくなるまで、握りしめた左手に力を入れ続けた。
「っ!」
そして、母親が戻ってこないことを確信してから、啓は耳元の『まっかっかさん』を振り払う。何の手応えもなく、あんなに近くにいた『まっかっかさん』が夢のようにかき消え、同時に周囲にひしめいていた『無名不思議』が影か幻のように消え去って、後には左手のひらの痛みだけが残った。
啓は、つぶやいた。
「……急がないと」
だんだんと『奴ら』が鮮明になっていた。だんだんと頻度も増えていた。
啓は自分の部屋を振り返った。視線の先は、今は襖が閉じられていて見えないが、自分の部屋のイーゼルに立てかけられたキャンバスのある方向だった。
啓は席を立ち、部屋の襖を、する、と開ける。
キャンバスが姿を現す。それは今、元の白紙ではなくなっていた。
そこには、異常なコラージュがあった。
キャンバスがスケッチで覆われていた。キャンバスの表面に、一見して数えられない程の異形めいたスケッチが、まるで鱗のように張りつけられていた。それは今まで描いてきた、無数のスケッチから徹底的に選び出されたもの。それが切り刻まれて形を整えられて、パズルのようにぎっしりと、キャンバスを埋め、画鋲によってとめられていたのだった。
絵の構想が、完成したのだ。
後は、最期まで進むだけだ。
今の啓の状態は、誰にも言っていなかった。
母親にはもちろん、菊にも、由加志にも、『太郎さん』にも。
たぶん、今、啓は全ての『学校の怪談』を背負っている。『無名不思議』を、つまり『ほうかご』を、全てこの身に背負っている。
いずれ自分は死ぬだろう。この『無名不思議』のどれかによって。
一度は大人しくなった『まっかっかさん』の予言の通り。必ず自分は死ぬだろう。
「なにもないよ」
そう言って、誰にも知らせずに、啓は全てを背負った。
惺がそうしていたように。啓は、惺を引き継いだのだから。だから啓は、惺のように、誰にも知らせずに、全てを背負って、死ぬ。
みんなを救うために。
菊を、それから学校の全ての子供たちを救うために。
惺が救おうとしていたものを救うために。救おうとして――――そして、きっと、たぶん、惺のように死ぬだろう。
そうして『学校わらし』の輪に加わる。
表の世界を『無名不思議』から守る、防波堤の一部になる。
惺がそうしたいと願った、望みを代わりに叶える。
そして啓はその副産物として、あるいは報酬として――――母親を、自分という存在から解放するのだ。
啓は、心に決めていた。
怖くはなかった。しかしそれは、死によって願いが叶うからではない。
そんなもので、死ぬのが怖くなくなるはずがない。化け物が怖くなくなるはずがない。
だとしたらなぜか。
啓はすでに――――絵描きとしてそれらと向かいあっていたからだ。
そこにあるのは画題。それが全て。他はもう、何も必要なかった。
もしも望みがあるとするならば、終わりの時までが、少しでも遅いこと。少しでも長く、描く時間をもらえることだけ。
………………