ほうかごがかり 3

九話 ⑩

 二十二回目の『ほうかごがかり』。

 新学期が始まった始業式の日と同日。この日、『ほうかご』に姿を現したけいは、今までとはちがって、スケッチブックをかかえていなかった。

 代わりにかかえているのは、もっと大きくかさるもの。

 さいのキャンバス。がらけいには、なおさらいかつく重そうに見える、その15号キャンバスをイーゼルと共に『開かずの間』に持ち込んだけいは、まず部屋の中にイーゼルを立てて、次にはんのリュックサックから油絵の道具を出して、ゆかに広げた。

 イーゼルに取り付けられたキャンバスには、すでにえんぴつしたきがされていた。

 あの『ほうかご』の景色を、いくつもコラージュした悪夢のような絵画。したきの時点ですでにおそろしく細かく、画面全体を線がおおっている。


「……じゃあ、行こう」


 そしてけいは、それを置いて、きくと共に『開かずの間』を出た。

 明かりがあってなおうすぐらく、スピーカーからのノイズが満ちているろうを、けいかいしながら移動して、『ほうかご』のあちこちを見て回る。

 あらためて観察する。ディテールを、しきさいを、目に焼きつけるために。

 この目で見える景色と姿を。そして、この目で見える姿だけでなく――――時に『窓』をのぞいて、それをかいして見える、その〝本当の姿〟も。


「……たのむ」

「うん」


 やがてけいきくは、曲がり角に身をかくし、ろうに立っている〝〟を見つけた。

 顔面にぽっかりと大きな黒い穴を空け、ぼんやりと立っている〝〟。そのくうどうが、今にもとこちらを向くのではないかというきんちようを張りつめさせながら、息をひそめて、けいはその異形の存在をねらうように両手で四角の窓を作った。

 そして小声できくに声をかけると、きくはうなずいて、後ろから、けいの窓に自分の『きつねの窓』を重ねる。けいは二重になった『窓』を動かし、向こうに見えている〝〟の姿に、その四角形を、重ねあわせる。


 そしてのぞくと――――穴の色が、


 こうして『きつねの窓』をかして見る〝〟の顔面の穴は、赤くなる。かして見ると正体を見破るという、この『きつねの窓』の〝まじない〟は、ただでさえ異様な『ほうかご』の景色と、そこにいるモノからのベールをぎとって、その結果、さらに異様な何かをのぞかせるのだ。

 かつてけいが『まっかっかさん』でそうしたように、こうして〝〟をのぞくと、肉眼で見ると黒かった穴が、赤に変わる。

 光やりようのような、均一な赤ではない。血の色だ。さらに言うなら毛細血管の色。真っ黒な穴の中に照明を当てて、その中をのぞきこむと、中が目視できないほど細かい毛細血管にびっしりと内側がおおわれていたような、そんな生きた色なのだ。

 質感があり、密度のようなムラがある、生々しくて、少しにごったいやな赤色。

 それが、小作りで愛らしいの顔面を、丸く切り取った中に、のっぺりと延べ広げられている。

 そして、ときおり

 毛細血管のようなしきさいが、生きた肉のように、いや、断続的にと動くそれは、何らかの臓器にも、あるいは眼球にも似た動きだった。

 その様子をけいは、息をつめて、見つめる。

 じっと観察する。これを見るのは二度目になるが、変わらず異様な不安感と不快感が、そのしきさいにはある。

 その色を、不快を、けいは、目と心に刻み込む。

 これこそが、『こちょこちょおばけ』の正体のいつたん。どうしてそう見えるのかは理解できないが、少なくともこれこそが、『こちょこちょおばけ』をくにあたって、キャンバスに写しとらなければならない、重要な要素にちがいないのだった。

 だから観察する。

 息をひそめて。

 じっと。

 二人の『窓』を重ね、ろうに満ちるノイズに囲まれて、ひそめた二人ぶんの呼吸をたがいに間近に聞きながら、じっと身をかくして見つめる。

 そうしていると、『窓』の中で、〝〟が不意に

 今までこんちゆうのように身じろぎもしなかったのが、とうとつにぐるりと頭をめぐらせて――――


「!」


 歩きだしたしゆんかんけいきくに指示して、さっとろうの曲がり角に身をかくした。そしてばやくその場をはなれた。どこへ〝〟が向かうかのかくにんなどしない。とにかく早くはなれる。こんなところで余計な危険をおかす必要はなかった。そして二人は、そのままぐに『開かずの間』へともどる。

 そしてけいは、そこで絵筆をとる。

 つい今しがたのおくうすれないうちに、たったいま見てきたものを、キャンバスへとき写す作業を始める。

 キャンバスにかれたしたきには〝〟の姿もあった。

 まずそれに取りかかる。目を閉じて、強くおくを呼び起こす。


「……」


 けいからすると大判とはいえ、油絵としては決して大きいとは言えないキャンバス。

 その画面にぎっしりとめこまれた『ほうかご』は、まだしたきに過ぎないが、もしも完成させるとするならば、細密画としか言いようのないものだった。

 十五世紀のきゆうてい画家ヤン・ファン・エイクが、人物のいる室内をえがいた絵の中にある、かべにかかった直径五センチの鏡の中に完全な鏡像をき込んだような、そんな領域へいどむかのような細密画だった。同じ絵の中で、絵画の中の調度の五ミリしかないかざりの中にえがかれた宗教画と、ペットの子犬の毛を一本一本マイクロメートルの細さでえがいたあの領域を、けいはそれが必要ならば、ちゆうちよなく目指すつもりでいた。


「……よし」


 目を開けたけいは、パレットの上にチューブの絵具えのぐを出し、色を調合する。

 そしてうすく下色をると、ぼうのつばを後ろに回し、キャンバスに鼻がつきそうなほど顔を近づけて、細部をき込み始める。

 至近きよで鼻をつく、絵具えのぐと混ざった、揮発する油のにおい。

 身にみつくほどぎ慣れたにおい。それを吸い込んで、最初のひと筆を乗せた時には、けいの意識は集中の世界に入り、油のにおいはもちろん、周囲の音さえも、目の前のしきさい以外には、何も入らなくなっていた。


「……なんだよこのにおい」


 顔をしかめて言う、『ろうさん』の言葉もだ。


「長いあいだここにいるけど、この部屋がこんなにおいになったこと、一度もないぞ。この部屋がアトリエになったこともさ!」


 文句を言う『ろうさん』。だがだれも、返事さえしなかった。

 きくが、ちょっとまどったように、視線を向けただけ。

 結局、みように張りつめたちんもくだけが部屋に落ちて、それからけいが一時間以上、一心不乱に絵をき進め続けるだけの時間が、『開かずの間』で過ぎた。

 そして。


「……ん」

刊行シリーズ

ほうかごがかり4 あかね小学校の書影
ほうかごがかり3の書影
ほうかごがかり2の書影
ほうかごがかりの書影