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二十二回目の『ほうかごがかり』。
新学期が始まった始業式の日と同日。この日、『ほうかご』に姿を現した啓は、今までとは違って、スケッチブックを抱えていなかった。
代わりに抱えているのは、もっと大きく嵩張るもの。
油彩のキャンバス。小柄な啓には、なおさら厳つく重そうに見える、その15号キャンバスをイーゼルと共に『開かずの間』に持ち込んだ啓は、まず部屋の中にイーゼルを立てて、次に帆布のリュックサックから油絵の道具を出して、床に広げた。
イーゼルに取り付けられたキャンバスには、すでに鉛筆で下描きがされていた。
あの『ほうかご』の景色を、いくつもコラージュした悪夢のような絵画。下描きの時点ですでに恐ろしく細かく、画面全体を線が覆っている。
「……じゃあ、行こう」
そして啓は、それを置いて、菊と共に『開かずの間』を出た。
明かりがあってなお薄暗く、スピーカーからのノイズが満ちている廊下を、警戒しながら移動して、『ほうかご』のあちこちを見て回る。
あらためて観察する。ディテールを、色彩を、目に焼きつけるために。
この目で見える景色と姿を。そして、この目で見える姿だけでなく――――時に『窓』を覗いて、それを介して見える、その〝本当の姿〟も。
「……頼む」
「うん」
やがて啓と菊は、曲がり角に身を隠し、廊下に立っている〝留希〟を見つけた。
顔面にぽっかりと大きな黒い穴を空け、ぼんやりと立っている〝留希〟。その空洞が、今にもぐるりとこちらを向くのではないかという緊張を張りつめさせながら、息を潜めて、啓はその異形の存在を狙うように両手で四角の窓を作った。
そして小声で菊に声をかけると、菊はうなずいて、後ろから、啓の窓に自分の『狐の窓』を重ねる。啓は二重になった『窓』を動かし、向こうに見えている〝留希〟の姿に、その四角形を、重ねあわせる。
そして覗くと――――穴の色が、赤に変わった。
こうして『狐の窓』を透かして見る〝留希〟の顔面の穴は、赤くなる。透かして見ると正体を見破るという、この『狐の窓』の〝まじない〟は、ただでさえ異様な『ほうかご』の景色と、そこにいるモノからまやかしのベールを剥ぎとって、その結果、さらに異様な何かを覗かせるのだ。
かつて啓が『まっかっかさん』でそうしたように、こうして〝留希〟を覗くと、肉眼で見ると黒かった穴が、赤に変わる。
光や塗料のような、均一な赤ではない。血の色だ。さらに言うなら毛細血管の色。真っ黒な穴の中に照明を当てて、その中を覗きこむと、中が目視できないほど細かい毛細血管にびっしりと内側が覆われていたような、そんな生きた色なのだ。
質感があり、密度のようなムラがある、生々しくて、少し濁った厭な赤色。
それが、小作りで愛らしい留希の顔面を、丸く切り取った中に、のっぺりと延べ広げられている。
そして、ときおり蠢くのだ。
毛細血管のような色彩が、生きた肉のように、いや、断続的にぎゅるりと動くそれは、何らかの臓器にも、あるいは眼球にも似た動きだった。
その様子を啓は、息をつめて、見つめる。
じっと観察する。これを見るのは二度目になるが、変わらず異様な不安感と不快感が、その色彩にはある。
その色を、不快を、啓は、目と心に刻み込む。
これこそが、『こちょこちょおばけ』の正体の一端。どうしてそう見えるのかは理解できないが、少なくともこれこそが、『こちょこちょおばけ』を描くにあたって、キャンバスに写しとらなければならない、重要な要素に違いないのだった。
だから観察する。
息を潜めて。
じっと。
二人の『窓』を重ね、廊下に満ちるノイズに囲まれて、潜めた二人ぶんの呼吸を互いに間近に聞きながら、じっと身を隠して見つめる。
そうしていると、『窓』の中で、〝留希〟が不意に動いた。
今まで昆虫のように身じろぎもしなかったのが、唐突にぐるりと頭を巡らせて――――
「!」
歩きだした瞬間、啓は菊に指示して、さっと廊下の曲がり角に身を隠した。そして素早くその場を離れた。どこへ〝留希〟が向かうかの確認などしない。とにかく早く離れる。こんなところで余計な危険を冒す必要はなかった。そして二人は、そのまま真っ直ぐに『開かずの間』へと戻る。
そして啓は、そこで絵筆をとる。
つい今しがたの記憶が薄れないうちに、たったいま見てきたものを、キャンバスへと描き写す作業を始める。
キャンバスに描かれた下描きには〝留希〟の姿もあった。
まずそれに取りかかる。目を閉じて、強く記憶を呼び起こす。
「……」
啓からすると大判とはいえ、油絵としては決して大きいとは言えないキャンバス。
その画面にぎっしりと詰めこまれた『ほうかご』は、まだ下描きに過ぎないが、もしも完成させるとするならば、細密画としか言いようのないものだった。
十五世紀の宮廷画家ヤン・ファン・エイクが、人物のいる室内を描いた絵の中にある、壁にかかった直径五センチの鏡の中に完全な鏡像を描き込んだような、そんな領域へ挑むかのような細密画だった。同じ絵の中で、絵画の中の調度の五ミリしかない飾りの中に描かれた宗教画と、ペットの子犬の毛を一本一本マイクロメートルの細さで描いたあの領域を、啓はそれが必要ならば、躊躇なく目指すつもりでいた。
「……よし」
目を開けた啓は、パレットの上にチューブの絵具を出し、色を調合する。
そして薄く下色を塗ると、帽子のつばを後ろに回し、キャンバスに鼻がつきそうなほど顔を近づけて、細部を描き込み始める。
至近距離で鼻をつく、絵具と混ざった、揮発する油の臭い。
身に染みつくほど嗅ぎ慣れた臭い。それを吸い込んで、最初のひと筆を乗せた時には、啓の意識は集中の世界に入り、油の臭いはもちろん、周囲の音さえも、目の前の色彩以外には、何も入らなくなっていた。
「……なんだよこの臭い」
顔をしかめて言う、『太郎さん』の言葉もだ。
「長いあいだここにいるけど、この部屋がこんな臭いになったこと、一度もないぞ。この部屋がアトリエになったこともさ!」
文句を言う『太郎さん』。だが誰も、返事さえしなかった。
菊が、ちょっと戸惑ったように、視線を向けただけ。
結局、奇妙に張りつめた沈黙だけが部屋に落ちて、それから啓が一時間以上、一心不乱に絵を描き進め続けるだけの時間が、『開かずの間』で過ぎた。
そして。
「……ん」