やがて、顔を上げる啓。
キャンバスの数ヶ所に、色が塗られていた。
数パーセントの進捗。啓は絵筆を置くと、しばらくじっとキャンバスを睨む。
それから菊を振り返った。パレットナイフを絵道具の中から取り上げて、ズボンのベルトの後ろに手挟みながら。
「次。見に行こう」
「あ……」
床に座りこんで、描き進められる絵を見ているうちに、うとうとしていたらしい菊は、慌てて立ち上がった。
「行けるか?」
「う、うん!」
そして、かたわらの箒を胸に引き寄せて、言った。
「だっ、大丈夫。どんな危ないとこでも、大丈夫」
「……行かないよ。わざわざそんなとこ」
眉を寄せて言う啓。啓自身は覚悟を決めている。しかしだからといって、必要もないのにわざわざ危険を冒すつもりはなかった。
死ねば、絵を描き進められなくなるのだ。
いざそうなってしまえば仕方がないし、『ほうかご』全ての絵を描くなどという、そうなるだけの無謀なことをした自覚はあるが、だからこそ今は、余計なところでリスクを踏むつもりはなかった。
自分への『無名不思議』の侵食に、啓はまだ耐えられていた。
激烈な侵食が来るかと覚悟していたが、今のところは幸いにも、そこまでではない。
それなら、少しでもこの状態を引き延ばしたい。
だから、わざわざ危険な場所には行かない。
なのだが――――
「でも、もし危険なとこに行くことになっても、大丈夫だから」
菊は、胸のあたりで箒の柄を、ぐっ、と握りしめて、気負って言った。
人の役に立ちたい菊は、啓と二人だけになった今、無闇に果敢になっていた。
菊が危険を冒すことに、難色を示す人間は、もういない。菊の能力を気味悪がるかもしれない人間も、もう誰もいなくなった。
だから菊は、もう誰の目を気にすることもなく、危険に飛び込もうとする。ずっと止められて、庇われていた危険の中に、自ら飛び込んで、隠すしかなかった能力を誰にもはばかることなく使って、人の役に立つことができると。
だが、実のところ。
啓は、惺と同じく、菊を危険にさらすつもりはなかった。
啓の絵に、彼女の協力は必要だ。だが彼女の望みには反して、啓はそれ以上の危険には彼女をさらす気はなかった。
庇うつもりだった。パートナーとして感謝と情。しかしそれ以上に、それこそ菊には不本意だろうが、惺が守ろうとした対象に、菊も含まれているというのが最大の理由だった。
啓は、惺の使命を引き継いだのだ。
啓には、惺のように過保護にはできなかったし、するつもりもなかった。だが本人には何も言っていないし、言えば怒るか悲しむだろうが、菊を危険からできるだけ遠ざけるという方針は、明確に持っていた。
菊は生き残らせる。
自分が生きている限り。
自分の命で引き換えにできるなら、それで。
だから、啓は――――菊には言わずに、密かに『テケテケ』の『記録』も作って、その『日誌』に署名していた。
「行くか」
「うん」
啓は、そんな思いを腹の底に隠して、菊をうながす。
また、これから着彩する、別の場所を見に行くため。
「あっ……ちょ、ちょっと待って」
そうして、二人で『開かずの間』を出たところで、菊が慌てた声を出した。
「!? どうした?」
「えっと、これ、持って来ちゃった……」
菊は恥ずかしそうに、剥き身で手に持っていた『日誌帳』を見せる。
「……確かにいらない」
「だ、だよね……」
うっかり持ったまま出て来てしまった、明らかに邪魔になるだけの『日誌帳』。それを置きに、急いで『開かずの間』に戻る菊。その背中を、啓は呆れたように見守っていたが、思った以上に気を張っていた自分に気がついて、小さく息を吐いて、少しだけ笑った。