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三十回目の『ほうかごがかり』。
啓は『ほうかご』に立った。その姿は一ヶ月ほど前の啓を知っていて、久しぶりに会ったという人なら、明らかにそれと分かるほど、顔色が悪くやつれていた。
疲労し、衰弱している。しかし相変わらず目だけは、力を失っていない。
強い意志と、知性と感性を宿した目。それを真っ直ぐ前に向け、背中には重い画材入りの帆布のリュックサック。肩にはイーゼル。腕にはキャンバス。
絵は――――『記録』は、着々と進んでいた。
もう背景は描き上がり、全景はほぼ完成していて、後は細部を描きこむばかりの、仕上げの段階に入っていた。
これから、各部に描かれている『無名不思議』を、一体一体仕上げる段階だった。魂と情報をこめて一体を描き上げるたびに、その『無名不思議』の『記録』がほぼ完成する。そのはずだ。そう確信していた。
上手くいけば、今日にでも仕上がるかもしれない。そんな段階。
そうでなくても、あと数回で終わる。そんな状況。
ここまで漕ぎつけた。日々を『無名不思議』に侵されて脅かされながらも、啓は絵を描き進め続けた。いや、脅かされていたからこそかもしれない。啓のもとに現れるということは、現れれば現れるだけ、それを写し取ることができる絵描きに、その姿と存在を、さらしているということだからだ。
ふと思う。それとも、『ほうかご』に見逃されているだけだろうか?
努力をした。工夫もした。啓の感覚と洞察は、過去最大に研ぎ澄まされていた。日々脅かされた。代償は払った。心身は疲弊し尽くして、今や精神力だけで、かろうじて立っている状態だった。
だがそれでも、ここまでたどり着けるとは、正直に言うと思っていなかった。
何か理由があるのだろうか? 泳がされているのだろうか? ゴールを間近にした方が、絶望がより深くなるから?
だが、関係なかった。仮にそうだったとしても関係ない。
やることは変わらなかった。絵を描く。完成させる。完成に向けて描き進める以外に、啓に進むべき道などなかった。
今日、仕上げをする。少なくとも一体は、今日描き上げる。
その最初の一体をどれにするか、もう啓は決めていた。それだけはすでに一歩先、完成寸前まで持ちこんでいた。
――――『こちょこちょおばけ』
今も留希の姿をして、学校を徘徊している化け物。
惺の直接の仇。これを、たとえ今日、啓が斃れるとしても、これだけは描き上げるために、今日はやって来た。
「…………」
呼び出しの放送が終わり、ノイズが流れる空気の中で、啓は顔を上げた。
今日の『ほうかご』の始まり。最初に立っている通路。そこから見える開けっぱなしのドアの、その向こうにある屋上の、暗闇の中に、じわ、と輪郭がにじんでいる、真っ赤な色をした人影が立っていた。
啓の担当する『まっかっかさん』。
そう名付けられたモノの、ほぼ残骸のようなもの。
もはや、そうやって細部の判然としない姿を見せ、聞き取れないうわごとをささやく程度しかできない存在。啓はいつものようにそれを無視して、背を向けた。もう自分の担当する『無名不思議』に向けることのない目を――――根深く疲れきっていながらも、そこだけは力のある目を、『開かずの間』に向かうために階段の下へと向けた。
〝留希〟が立っていた。
天井に灯る明かりに照らされて、しかし目には、奇妙に暗く感じる階段の下。目を向けるとそこに〝留希〟が、茫、と立っていて、ぽっかりと黒い穴が空いた顔面を、階段の上の啓へと向けていた。
「…………………………………………」
声も何もなく、ぽっかりと、こちらを〝凝視〟する〝虚ろ〟。
行く手を阻む虚ろの化け物。対峙する。緊張。啓の口の端が引きつって、笑う。
「……初めて、正面からお前の顔を見たよ」
啓は言った。強がり。そして本心だった。
絵を〝完成〟させるためには、いつかは、一度は、絶対にこうして、間近に対峙しなければならないと思っていた。
だが、少なくともこんな何の準備も覚悟もしていない状況でやるつもりではなかった。
ましてや菊がいない、『狐の窓』もない状況では。
啓の額から、冷や汗が顔を伝う。
………………