ほうかごがかり 3

九話 ⑯


「っ!」


 すぐさま反転し、屋上にげた。

 ドアを閉めようとしたが、開いたままドアが動かない。あせって必死に力を入れたが、どうだにしない。

 その間にも階段を上がってくる足音が聞こえ、階段の下から穴の空いた顔が現れる。そのまま〝〟が、両手をこちらにばしてって来たので、けいは仕方なくあわててベルトからパレットナイフをして、向かって来た〝〟へときつけた。


「――――――っ!!」


 びた、と〝〟の動きがけいかいするけもののように止まった。

 しばしそのまま。引きつった顔でけいは〝〟の穴の空いた顔とにらっていたが、ナイフをきつけた向きのままゆっくりと入口のゆかに置いて、そしてじりじりと向かい合ったまま後ろに下がった。


「…………!」


 ゆかのナイフを前に、〝〟は動かない。けいは下がる。

 ゆっくりと下がり、真っ暗な屋上の、かろうじて入口の明かりが届いているはんから、けいくらやみの中へと、下がりきる。

 そこには『まっかっかさん』が今しがたまで立っていたが、今は姿を消していた。けいきんちようめた呼吸のせいで胸に痛みを感じながら、光の中、入口に立つ〝〟からは目をはなさずに、かたからイーゼルを下ろした。


「…………」


 そして足音と、呼吸の音を殺して、くらやみの中を移動する。

 入口の向こうにいる〝〟から、死角になる位置に大きく移動して、キャンバスとリュックサックだけを持って、ほとんどフェンス沿いに、しのび歩いた。

 入口のある、屋上の建物部分へと。

 建物部分の側面へ。けいはそこにたどり着くと、その建物部分の上に上がるための鉄製の梯子はしごに取りついて、片手に大きなキャンバスを持ったまま、その梯子はしごを登っていった。

 急いで。しかししんちように。音を立てないように。

 あせり。不安。きよう。手と体のふるえと、明らかにけいの体格には合わない大きさの、登りづらい、梯子はしごはば

 それでも小学生の身の軽さで何とか建物の上まで上がると、けいは少しだけ高くなっているふちの部分にキャンバスを置いて、それからリュックサックを開けて絵の道具を取り出した。絵具えのぐにパレットに筆、その他。そして筆を口にくわえながら自分もそこに身をせ、キャンバスと屋上が同時に見えるように身を乗り出して、静かに息を殺した。


 けいは――――ここで、絵をこうとしていた。


 化け物に追われ、められながら、自分をおそう化け物を目と鼻の先にしながら、その化け物の絵をこうとしていた。つうに考えるならば正気とは思えない行動だったが、きようと危機感ときんちようさいなまれながらも、けいしんけんだった。そして正気だった。手がふるえていた。呼吸が自然と上がった。さけび出しそうなきんちようしたくなるようなきよう

 だがそれでも、やめない。目の前の、よく見知った人間の肉と皮を着込んだ、人体に穴を空けてその中にひそんでいる化け物におそわれながら、それを絵にこうとする行動を。

 やめようとはしなかった。どうせなどない。それならば少しでも先にき進めるべきだった。これが最後になるかもしれないのだから。


 ……


 と入口の光の中に、の姿をした化け物が、やっとパレットナイフをえて現れる。

 けいを捜しているのか、周囲を見回して、くらやみの中に放置されたイーゼルへと向けて歩いてゆく〝〟を見て、目を見開いたけいは口にくわえていた筆を手にし、〝〟をぎようしながらパレットの上で絵具えのぐいた。

 仕上げる。その〝〟の姿を。

 生きている時を知っている、知り合いの姿を。

 立っているのに、動いているのに、死人のはだの色。

 顔面に空いた大きな黒い穴。人間としての知性を感じない、立ち方、歩き方、周りの見回し方、動作。

 それから、穴の中にいる――――

 けいく。仕上げる。その死人のようなはだの色と質感を、キャンバスに写し取る。

 細密に。写実的に。手をかけて。そして他のすべての部分を合わせたよりも手をかけて、顔面に空いた穴を、その中を、てつていてきく。

 黒い。黒い穴。

 不安をもよおす、全くの黒。

 それをった後、けいは――――その穴の奥に、赤を描いた。

 きくの『きつねの窓』しに見た、穴の中の赤。毛細血管の色をした赤色。正体不明の赤色。これこそが、『こちょこちょおばけ』の本当の姿。

 おくを思い出しながら、けいは、その色を、く。

 わざわざ、ずっと残していた空白に、いまきこむ。いまここで。

 屋上を、けいを捜してうろつく〝〟を見下ろしながら、く。細い絵筆で。そのせんたんのさらにせんたんを使って。一ミリよりも細い線を。集中して、ぼつにゆうして、く。線の集積で、色と質感を写し取る。


 ふーっ……ふーっ……!


 呼吸を押し殺し、まばたきも忘れて。

 キャンバスに、れそうなほどに顔を、目を近づけて。

 見つかれば終わりだ。だが、そのきようも、不安も、きの集中が上回っている。ぼうの世界。だがその心の底には、目の前のきようとは別の、あせりがあった。

 もどかしい。足りないのだ。

 情報が足りない。キャンバスに写し取る、目で見ることができる情報が足りない。

 進めてはいる。だが、遠い。おそい。足りない。けいの目で見る世界の情報はあまりにも足りなかった。写し取らなければならない『きつねの窓』を通した情報を、いまけいは目の前の存在からではなく、けいおくから筆の先に取り出しているのだ。

 ここに『きつねの窓』があれば、もっとたくさんの情報が、もっと深い情報が見えるのに。

 見ながらいて、写し取れるのに。もっと早く仕上げられるのに。

 もどかしい。あせる。あせる。

 額にかぶあぶらあせ。酸素が足りない。時間が足りない。

 そんなあせりにうごかされながら、ことさらに細かい部分の線と色を集中してキャンバスに刻んで、刻んで、そして顔を上げた時。


 

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