7
「っ!」
すぐさま反転し、屋上に逃げた。
ドアを閉めようとしたが、開いたままドアが動かない。焦って必死に力を入れたが、微動だにしない。
その間にも階段を上がってくる足音が聞こえ、階段の下から穴の空いた顔が現れる。そのまま〝留希〟が、両手をこちらに伸ばして駆け寄って来たので、啓は仕方なく慌ててベルトからパレットナイフを抜き出して、向かって来た〝留希〟へと突きつけた。
「――――――っ!!」
びた、と〝留希〟の動きが警戒する獣のように止まった。
しばしそのまま。引きつった顔で啓は〝留希〟の穴の空いた顔と睨み合っていたが、ナイフを突きつけた向きのままゆっくりと入口の床に置いて、そしてじりじりと向かい合ったまま後ろに下がった。
「…………!」
床のナイフを前に、〝留希〟は動かない。啓は下がる。
ゆっくりと下がり、真っ暗な屋上の、かろうじて入口の明かりが届いている範囲から、啓は暗闇の中へと、下がりきる。
そこには『まっかっかさん』が今しがたまで立っていたが、今は姿を消していた。啓は緊張に張り詰めた呼吸のせいで胸に痛みを感じながら、光の中、入口に立つ〝留希〟からは目を離さずに、肩からイーゼルを下ろした。
「…………」
そして足音と、呼吸の音を殺して、暗闇の中を移動する。
入口の向こうにいる〝留希〟から、死角になる位置に大きく移動して、キャンバスとリュックサックだけを持って、ほとんどフェンス沿いに、逆に入口の方へと忍び歩いた。
入口のある、屋上の建物部分へと。
建物部分の側面へ。啓はそこにたどり着くと、その建物部分の上に上がるための鉄製の梯子に取りついて、片手に大きなキャンバスを持ったまま、その梯子を登っていった。
急いで。しかし慎重に。音を立てないように。
焦り。不安。恐怖。手と体の震えと、明らかに啓の体格には合わない大きさの、登りづらい、梯子の幅。
それでも小学生の身の軽さで何とか建物の上まで上がると、啓は少しだけ高くなっている縁の部分にキャンバスを置いて、それからリュックサックを開けて絵の道具を取り出した。絵具にパレットに筆、その他。そして筆を口にくわえながら自分もそこに身を伏せ、キャンバスと屋上が同時に見えるように身を乗り出して、静かに息を殺した。
啓は――――ここで、絵を描こうとしていた。
化け物に追われ、追い詰められながら、自分を襲う化け物を目と鼻の先にしながら、その化け物の絵を描こうとしていた。普通に考えるならば正気とは思えない行動だったが、恐怖と危機感と緊張に苛まれながらも、啓は真剣だった。そして正気だった。手が震えていた。呼吸が自然と上がった。叫び出しそうな緊張。逃げ出したくなるような恐怖。
だがそれでも、やめない。目の前の、よく見知った人間の肉と皮を着込んだ、人体に穴を空けてその中に潜んでいる化け物に襲われながら、それを絵に描こうとする行動を。
やめようとはしなかった。どうせ逃げ場などない。それならば少しでも先に描き進めるべきだった。これが最後になるかもしれないのだから。
ぱた、ぱた……
と入口の光の中に、留希の姿をした化け物が、やっとパレットナイフを踏み越えて現れる。
啓を捜しているのか、周囲を見回して、暗闇の中に放置されたイーゼルへと向けて歩いてゆく〝留希〟を見て、目を見開いた啓は口にくわえていた筆を手にし、〝留希〟を凝視しながらパレットの上で絵具を溶いた。
仕上げる。その〝留希〟の姿を。
生きている時を知っている、知り合いの姿を。
立っているのに、動いているのに、死人の肌の色。
顔面に空いた大きな黒い穴。人間としての知性を感じない、立ち方、歩き方、周りの見回し方、動作。
それから、穴の中にいる――――なにか。
啓は描く。仕上げる。その死人のような肌の色と質感を、キャンバスに写し取る。
細密に。写実的に。手をかけて。そして他のすべての部分を合わせたよりも手をかけて、顔面に空いた穴を、その中を、徹底的に描く。
黒い。黒い穴。
不安を催す、全くの黒。
それを塗った後、啓は――――その穴の奥に、赤を描いた。
菊の『狐の窓』越しに見た、穴の中の赤。毛細血管の色をした赤色。正体不明の赤色。これこそが、『こちょこちょおばけ』の本当の姿。
記憶を思い出しながら、啓は、その色を、描く。
わざわざ、ずっと残していた空白に、いま描きこむ。いまここで。
屋上を、啓を捜してうろつく〝留希〟を見下ろしながら、描く。細い絵筆で。その先端のさらに先端を使って。一ミリよりも細い線を。集中して、没入して、描く。線の集積で、色と質感を写し取る。
ふーっ……ふーっ……!
呼吸を押し殺し、まばたきも忘れて。
キャンバスに、触れそうなほどに顔を、目を近づけて。
見つかれば終わりだ。だが、その恐怖も、不安も、絵描きの集中が上回っている。忘我の世界。だがその心の底には、目の前の恐怖とは別の、焦りがあった。
もどかしい。足りないのだ。
情報が足りない。キャンバスに写し取る、目で見ることができる情報が足りない。
進めてはいる。だが、遠い。遅い。足りない。啓の目で見る世界の情報はあまりにも足りなかった。写し取らなければならない『狐の窓』を通した情報を、いま啓は目の前の存在からではなく、啓の記憶から筆の先に取り出しているのだ。
ここに『狐の窓』があれば、もっとたくさんの情報が、もっと深い情報が見えるのに。
見ながら描いて、写し取れるのに。もっと早く仕上げられるのに。
もどかしい。焦る。焦る。
額に浮かぶ脂汗。酸素が足りない。時間が足りない。
そんな焦りに突き動かされながら、ことさらに細かい部分の線と色を集中してキャンバスに刻んで、刻んで、そして顔を上げた時。
見上げられていた。