つい先ほどまで、ふらふらと見当違いに屋上を捜していたはずの〝留希〟が、啓が描き込みに集中して視線を外したそのわずかの間に、いつの間にか入口を照らす光の中に立って、真上に伏せている啓のことを、空洞になった顔で見上げていた。
「――――――!!」
ぞっ、と鳥肌が立った。ぽっかりとした空洞と目が合った。
ぽっかりとした悪意があった。人間とは異質な違う知能を持った、複雑な感情など持っていない、しかしそれにもかかわらず人間のふりをしようとしている、人間を捕食する生物の、ただただ平坦で空っぽの悪意。
ばたばたばたばたばたっ!!
一瞬の間の後、すぐさま〝それ〟は、啓に向かって駆け寄った。
啓がいる建物。今まさに啓が伏せている、その建物の上に登るための、壁に埋め込まれた梯子に、〝留希〟は真っ直ぐに駆け寄って、取りついた。
上がってきた。梯子を。恐ろしい勢いで。
顔の空洞を、真っ直ぐ上に向けて、昆虫が人間の手足を動かしているかのような、どこか異様な動きで。
かん、かん、かん、かん、
まず最初に、靴が梯子を上がる音が。
そして次に、最初は聞こえなかった、もっと小さな音が――――
びた、びた、びた、
と、素手が梯子をつかむ音が、建物の上の、啓に届く。
やって来る。もう逃げ場のない場所に。
その迫る音を聞きながら、息をつめて、梯子のある方に目を向けて、目を大きく見開いていた啓は――――――
突如、筆をくわえパレットを持ち、さらにキャンバスをつかんで、
そのまま化け物の上がってくる梯子へと駆け寄って、
そして、梯子を覗き込んだ。
間近でそれを描くために。
足りない観察を、情報を求めた啓は、梯子を上がってきた〝留希〟の貌を、至近距離で真正面から覗きこんだのだ。
大穴の空いた、人間の顔面を。
肌の産毛まで分かる距離で。迫り来るそれと、触れそうな距離で。
「…………っ!」
その存在のおぞましさに、全身の毛が逆立つ。
おぞましさ。恐怖。異常。不快。〝それ〟を見ている目と、空気を介して触れている互いの肌を伝って、体と心に吹きつけてくる感覚に、全身を悪寒が駆け上がった。
手が伸びてきた。覗きこんだ、啓の頭をつかもうと。
啓はそれを、自分の左手でかばった。手首がつかまれた。
制服の袖ごしに感じる、締め上げるような強い力。そしてそこに感じた感触は、冷たく体温の失われた、骨組みの埋まった粘土のような死んだ肉の感触だった。
「…………………………!」
死と冒涜が、そこにあった。
引っ張られた。その力に、啓は反射的に、体を全面的にコンクリートの床にへばりつかせるようにして、体重と摩擦とを全力で使って、引き込まれないよう抵抗した。
そして――――くわえていた筆を右手で持ち直し、絵を再開する。
歯を食いしばって。引き寄せる腕と恐怖に耐えながら。それでも今まさに間近で見ている質感と、吹きつけてきている感覚と、触れている感触を、全霊をもって、目の前に置いたキャンバスに写し取っていった。
「…………!!」
そうだ。これだ。
これも足りなかったのだ。間近に見ること。触れる感触。
絵が完成してゆく。だが、ずるずると少しずつ、梯子へ引きずられてゆく体。そして啓の腕を引っ張って、徐々に徐々に、啓のいる屋根へと上がってくる、〝留希〟。
そして、
びた。
とやがて。
啓の腕をつかんだのとは逆の、〝留希〟の手が、屋根の縁をつかんだ。
そして――――
ぬーっ、
と穴の空いた〝留希〟の頭が、屋根の上に。縁から梯子を覗いていた啓の顔の、触れそうなほどすぐ横に、迫り上がってきた。
髪の毛が触れ、肌が触れそうなほどの隣に。
そして顔面の穴が、かじりつきそうなほど、啓の顔に寄せられて――――その穴の奥から人間のものではない息づかいのようなものを感じて――――啓がその深淵に目を向けた時、啓の左目に、鉛筆の先端が突き刺さった。
「!!」
寸前に右手で庇った。だが明らかに目の表面をかすった。
激痛。あふれ出す涙。閉じた左の視界が赤い。左目が開けられない。
だが啓は、それを無視した。最後のピースをいま見たのだ。啓は左目を閉じたまま、顔のすぐ横に口を開けた顔面の黒い穴も無視して、涙を流したままキャンバスに向き直ると、絵の中の〝留希〟の貌に空いた穴の、その奥に描いた赤色の、そのさらに奥の真ん中に、鉛筆の先端を描き込んだ。
だが、それが描き終わらないうちに。
すぐ隣の〝留希〟の貌の穴の中から、さらに鉛筆の先端が伸びた。
それは、もう啓が逃げられない、逃げないことを理解しているかのように。
ゆっくりと、今度は外さないように、抵抗されないように、狙いを定めて――――啓の白い頸に、鉛筆の先端を突き刺した。
瞬間、
「やめてっ……!!」