ほうかごがかり 3

九話 ⑱

 屋上にひびく女の子の声。

 それと同時に、下からまわされたほうきせんたんが、〝〟の背をはらった。

 ぎゃっ!! とけものが火であぶられたようなさけごえが穴の中からして、バネ板がはじかれたかのように〝〟の上半身がのけぞってけいからはなれた。そして、至近でひろげられたそれらのじようきようを全て無視したけいが、絵の中の〝〟にれていた『えんぴつせんたん』を、最後までき上げたのは、その直後だった。

 しゆんかん


 時間が止まったような、せいじやくが落ちた。


 しん、と。あれほどきようれつな気配を放ちながら動き回っていた〝〟が、スイッチが切れたかのように完全に動きを止め、梯子はしごの上でのけぞった姿勢のまま固まって、そして数秒の間の後、そのままゆっくりとたおれて、宙に投げ出された。


「あ……」


 けいの見ている前で、の体は宙をい、梯子はしごの上の高さから、真っ黒な空の大きくうねる大気にあおられてフェンスの外に落ちた。放り出された人形のように、の体はフェンスの外を落ちて、声も音もなく、屋上の下へと消えていった。

 そして、


 重く、にぶい音。


 雑音混じりのしようげきの音。それは砂をめた重いふくろが、え込みをやぶって、地面に落ちたような音だった。

 それきり音は消える。けいは、屋根のふちうようにして、下を見る。

 しかしそこからは屋上のはしが見えるだけで、真下を見ることはできず、そこにはくらやみせいじやくが広がっているだけだった。夜のくらやみが落ちたグラウンドの景色と、自分の呼吸の音以外、何も聞こえない、無音が。


「………………」


 耳をすませるが、もう何の動きもなかった。

 しばらくけいは、そのまま動かなかったが、やがて深く長く息をいて、それから自分を助けてくれたのだろう相手に声をかけようと、下に身を乗り出そうとした。

 その時だった。

 声が聞こえた。

 遠くから。くらやみと共にこの世界をくしている、全くの無音の彼方かなたから、不意に遠くかすかに、声が聞こえたのだった。



「ぁ…………あ……ぁあ…………」



 それは、もんの声だった。

 もんする声。苦痛の声。それが耳に入り、思わず動きを止めて耳をそばだたせたけいは、その声が何なのか理解したしゆんかん、ぞ、と全身にとりはだが立った。


 


 が苦しむ声だった。夏休みに入ったあの日の、あの事件から、もはや一度も聞くことのなかったの声が、いま苦痛と共に、聞こえていた。

 この見える限りの校庭の、どこで発された声であっても屋上まで聞こえるだろう、あまりにも音のないせいじやくの中、それは届いた。〝〟の落ちていった、校舎の下から、かすかに聞こえた、の声が。


「…………ぁ……う……痛い…………痛いよ……」


 泣いていた。が苦しんで、泣いていた。

 泣き声と、うめき声の混じった、苦痛の声。それは悲痛で、弱々しく、そしてこんな異常なせいじやくの中でなければ、子供たちや街の音にちがいなくかき消されてしまうだろう、あまりにも力弱い声だった。


「痛い…………痛いよ……助けて…………」


 きっと、現実ならだれにも届かない声。

 そんな声をらしながら、校舎の下のえ込みに落ちたモノは、がさがさと音を立ててもがき、そしてだれの助けもない中でどくに立ち上がり、移動した。


「痛いよ……帰る…………帰りたい……」


 聞こえ続けるそんな声。まるで、今にもれそうな意識をつなごうとするかのような、めいた言葉。そして、ずる、ずる、と、足を引きずる音。やがてけいが見下ろしている視界の中に、ぽつん、と小さく、少年の姿が現れた。


「………………!!」


 つぶれたような右半身から血を流す、の後ろ姿だった。

 右半身が、かみも服も血に染まり、左手で押さえてもぶらぶらとれるみぎうでかばい、動かない血だらけのあしを引きずったが、血のあとを残しながら歩いていた。

 その先には校門。学校の出入口。

 は、のろのろと、しかしぐに、それを目指して歩いてゆく。うめくように、うわごとのように、ただずっと、言葉を口にしながら。


「痛い…………帰る……家に、帰る…………」


 歩いてゆく。そしては、校門にたどり着く。

 たどり着いて、校門の横にあるかいじようスイッチを押し、てつごう状の門のはしに作りつけられたてつを開けて、門の外に出てゆく。


「帰りたい……帰る……」


 そしては、そのままのろのろと、学校の外へと出て行こうとして。

 そこを取り囲む、『学校わらし』の、ぼうれいの輪の手前で、、ずるずるとその場にたおれ込んだ。

 小さく、声が聞こえた。


「…………痛い……」


 小さく、か細い声。

 もう本当に、聞こえなくなる寸前の、声。


「………………帰る………………お母さん…………」


 そして、もう言葉としては、聞こえなくなって。

 の体は、二度と動かず、もう声も、二度と聞こえることはなかった。



「…………………………………………」



 本当のせいじやくが、今度こそ、もどった。

 ぼうぜんと、何もできずに、ただその光景を見守っていたけいは、想像もしていなかったあまりのじようきように、言葉も出なかった。

 そして異様に長く感じる、止まったような時間が過ぎて、やがて何とか口を開く。

 かろうじて言葉にできたのは、これだけだった。


「なんなんだよ……」


 それ以上の言葉は出なかった。かくしてごくに来た。ここがごくだと知っていた。そのはずだった。だが、それでもまだ足りなかった。

 心が、感情が寸断されて、立ち上がれない。

 だが、それでも、どうにか心から力をしぼりだして、体に力を入れて立ち上がり、今度こそ下に声をかける。


どうじまさん、そっちは……だいじようか?」


 きくへと。

 左目の涙をぬぐいながら、つい今しがた自分を助けてくれたきくへと声をかけて、このごくのようなじようきようの中で、たがいの無事と正気をかくにんしようとする。


「ありがとう、助かった。そっちは…………何もなかったか?」


 声をかけるが、返事がない。


どうじまさん?」


 けいは、ふらつきながら屋根のふちに立って、身を乗り出して、下を見る。

 見たしゆんかん、全身をかんがった。


「……!!」


 見えたのは、血。

 屋上の、コンクリートのゆかまった、血だまり。

 屋上の入口から続いている血のあとの、その終点の血だまり。

 そして。


 きくかべに寄りかかっていた。


 梯子はしごの横のかべに寄りかかり、血だまりの上に座り込むようにして、明らかに血だまりの元になった腹部を赤く染めて――――――きくは、まるでこの世界を満たしているせいじやくの中にしずむようにして、けいに何も答えることなく、ただ静かに横たわっていた。


 ………………

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