屋上に響く女の子の声。
それと同時に、下から振り回された箒の先端が、〝留希〟の背を薙ぎ払った。
ぎゃっ!! と獣が火で炙られたような叫び声が穴の中からして、バネ板が弾かれたかのように〝留希〟の上半身がのけぞって啓から離れた。そして、至近で繰り広げられたそれらの状況を全て無視した啓が、絵の中の〝留希〟に描き入れていた『鉛筆の先端』を、最後まで描き上げたのは、その直後だった。
瞬間。
時間が止まったような、静寂が落ちた。
しん、と。あれほど強烈な気配を放ちながら動き回っていた〝留希〟が、スイッチが切れたかのように完全に動きを止め、梯子の上でのけぞった姿勢のまま固まって、そして数秒の間の後、そのままゆっくりと倒れて、宙に投げ出された。
「あ……」
啓の見ている前で、留希の体は宙を舞い、梯子の上の高さから、真っ黒な空の大きくうねる大気に煽られてフェンスの外に落ちた。放り出された人形のように、留希の体はフェンスの外を落ちて、声も音もなく、屋上の下へと消えていった。
そして、
重く、鈍い音。
雑音混じりの衝撃の音。それは砂を詰めた重い袋が、植え込みを突き破って、地面に落ちたような音だった。
それきり音は消える。啓は、屋根の縁を這うようにして、下を見る。
しかしそこからは屋上の端が見えるだけで、真下を見ることはできず、そこには暗闇と静寂が広がっているだけだった。夜の暗闇が落ちたグラウンドの景色と、自分の呼吸の音以外、何も聞こえない、無音が。
「………………」
耳をすませるが、もう何の動きもなかった。
しばらく啓は、そのまま動かなかったが、やがて深く長く息を吐いて、それから自分を助けてくれたのだろう相手に声をかけようと、下に身を乗り出そうとした。
その時だった。
声が聞こえた。
遠くから。暗闇と共にこの世界を埋め尽くしている、全くの無音の彼方から、不意に遠くかすかに、声が聞こえたのだった。
「ぁ…………あ……ぁあ…………」
それは、苦悶の声だった。
苦悶する声。苦痛の声。それが耳に入り、思わず動きを止めて耳をそばだたせた啓は、その声が何なのか理解した瞬間、ぞ、と全身に鳥肌が立った。
留希の声だった。
留希が苦しむ声だった。夏休みに入ったあの日の、あの事件から、もはや一度も聞くことのなかった留希の声が、いま苦痛と共に、校舎の下から聞こえていた。
この見える限りの校庭の、どこで発された声であっても屋上まで聞こえるだろう、あまりにも音のない静寂の中、それは届いた。〝留希〟の落ちていった、校舎の下から、かすかに聞こえた、留希の声が。
「…………ぁ……う……痛い…………痛いよ……」
泣いていた。留希が苦しんで、泣いていた。
泣き声と、うめき声の混じった、苦痛の声。それは悲痛で、弱々しく、そしてこんな異常な静寂の中でなければ、子供たちや街の音に間違いなくかき消されてしまうだろう、あまりにも力弱い声だった。
「痛い…………痛いよ……助けて…………」
きっと、現実なら誰にも届かない声。
そんな声を漏らしながら、校舎の下の植え込みに落ちたモノは、がさがさと音を立ててもがき、そして誰の助けもない中で孤独に立ち上がり、移動した。
「痛いよ……帰る…………帰りたい……」
聞こえ続けるそんな声。まるで、今にも途切れそうな意識を繋ごうとするかのような、うわごとめいた言葉。そして、ずる、ずる、と、足を引きずる音。やがて啓が見下ろしている視界の中に、ぽつん、と小さく、少年の姿が現れた。
「………………!!」
潰れたような右半身から血を流す、留希の後ろ姿だった。
右半身が、髪の毛も服も血に染まり、左手で押さえてもぶらぶらと揺れる右腕を庇い、動かない血だらけの脚を引きずった留希が、血の痕を残しながら歩いていた。
その先には校門。学校の出入口。
留希は、のろのろと、しかし真っ直ぐに、それを目指して歩いてゆく。うめくように、うわごとのように、ただずっと、言葉を口にしながら。
「痛い…………帰る……家に、帰る…………」
歩いてゆく。そして留希は、校門にたどり着く。
たどり着いて、校門の横にある解錠スイッチを押し、鉄格子状の門の端に作りつけられた鉄扉を開けて、門の外に出てゆく。
「帰りたい……帰る……」
そして留希は、そのままのろのろと、学校の外へと出て行こうとして。
そこを取り囲む、『学校わらし』の、亡霊の輪の手前で、見えない壁にぶつかったように阻まれて、ずるずるとその場に倒れ込んだ。
小さく、声が聞こえた。
「…………痛い……」
小さく、か細い声。
もう本当に、聞こえなくなる寸前の、声。
「………………帰る………………お母さん…………」
そして、もう言葉としては、聞こえなくなって。
留希の体は、二度と動かず、もう声も、二度と聞こえることはなかった。
「…………………………………………」
本当の静寂が、今度こそ、戻った。
呆然と、何もできずに、ただその光景を見守っていた啓は、想像もしていなかったあまりの状況に、言葉も出なかった。
そして異様に長く感じる、止まったような時間が過ぎて、やがて何とか口を開く。
かろうじて言葉にできたのは、これだけだった。
「なんなんだよ……」
それ以上の言葉は出なかった。覚悟して地獄に来た。ここが地獄だと知っていた。そのはずだった。だが、それでもまだ足りなかった。
心が、感情が寸断されて、立ち上がれない。
だが、それでも、どうにか心から力をしぼりだして、体に力を入れて立ち上がり、今度こそ下に声をかける。
「堂島さん、そっちは……大丈夫か?」
菊へと。
左目の涙をぬぐいながら、つい今しがた自分を助けてくれた菊へと声をかけて、この地獄のような状況の中で、互いの無事と正気を確認しようとする。
「ありがとう、助かった。そっちは…………何もなかったか?」
声をかけるが、返事がない。
「堂島さん?」
啓は、ふらつきながら屋根の縁に立って、身を乗り出して、下を見る。
見た瞬間、全身を悪寒が駆け上がった。
「……!!」
見えたのは、血。
屋上の、コンクリートの床に溜まった、血だまり。
屋上の入口から続いている血の痕の、その終点の血だまり。
そして。
菊が壁に寄りかかっていた。
梯子の横の壁に寄りかかり、血だまりの上に座り込むようにして、明らかに血だまりの元になった腹部を赤く染めて――――――菊は、まるでこの世界を満たしている静寂の中に沈むようにして、啓に何も答えることなく、ただ静かに横たわっていた。
………………
………………………………………………