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少し時間は遡って。
まだ誰も来ていない『開かずの間』。その部屋の扉が、ノックもなく開かれて、無言で姿を現したのは、菊だった。
――――血まみれだった。
広がる血の臭い。苦悶の吐息。
傷だらけだった。扉を開け、そこに立っていた菊は、むき出しの両腕に彫刻刀で皮膚を削ぎ取ったような深く長い傷が何本も口を開けていて、持っている箒も、身につけているシャツもスカートも、ぐっしょりと赤黒く血で汚れていたのだ。
血は顔まで飛び散り、代わりに顔色は血の気を失って、蒼白になっていた。
失った血は腕をつたい、絆創膏だらけの足をつたい、服をてらてらと光るほど重く濡らしていて、重力に引かれて、腕や、箒や、乱れたシャツの裾や、スカートの裾から、ぼたぼたと床にしたたっていた。
ひどい出血だった。中でも特にひどいのは、右手で押さえている脇腹だ。
スカートから裾が出るほど乱れたシャツの、その腹部は、押さえた手の下にあるのだろう大きな傷からの出血を飽和するほど吸って、もはや見た目の質感が、布地か血かも分からないような状態になっていた。
「…………」
菊は、そんな状態で、苦痛に脂汗を浮かべながら、部屋の中を見る。
苦痛に眉を寄せながらも、その苦痛を通り越した冷静な表情。そんな菊を『太郎さん』はゆるりと振り返り、そしてわずかに、顔をしかめた。
「……とうとうキミがうっかり作った、例の地獄のフタが開いたみたいだな」
そして言った。
「見た感じ、下半身を取られかけたな? 『テケテケ』は一説では、なくなってしまった自分の下半身を捜してるんだそうだ。体の一部がない点が同じ都市伝説の、『カシマさん』と混同が起こったかららしいけど、『カシマさん』は遭遇した人間に謎かけをして、自分がなくしたのと同じ体の部分を奪って殺す怨霊だ。運がよかったな。『テケテケ』が奪う予定だったキミの足を傷つけなかったから、キミはその足でここまで逃げてこられた。緒方くんの置いていった救急道具があるから、それで応急処置して時間まで待ってれば、もしかすると助かるかもしれない」
そんな『太郎さん』の提案に、菊はうなずかなかった。提案に対しても何も言わず、ただ代わりに『太郎さん』に、ひとつ訊ねた。
「……二森くんは?」
「まだ来てない」
答える『太郎さん』。
その答えを聞くと、菊はふらつきながらもきびすを返し、廊下を戻って行こうとした。足元には、雨のような血の痕。そんな状態でどこかに行こうとする菊を見て、皮肉屋なふるまいをしている『太郎さん』も、さすがにあわてた。
「おい、どこ行くんだ! そのままだとさすがに死ぬぞ!」
「二森くんを……助けなきゃ……」
「はあ!?」
菊の答えに、『太郎さん』は声を荒らげた。
「人のことなんか気にしてる場合か!?」
「絶対……いま、二森くんも大変なことになってるから……行かないと」
つぶやくように言って、菊は動くたびに走る腕と腹部の痛みに顔を歪めながら、箒の先を引きずって『開かずの間』を去る。
「おい!」
「ごめんね」
後ろで『太郎さん』の呼び止める声がしたが、それだけ言い残す。言うことは聞かない。聞けない。それどころではない。菊はここに遅れて来たのに、まだ啓が来ていないということは、自分がこうなったように、啓にも何かが起こったのだとしか思えなかった。
その疑惑は、痛みと出血で朦朧としつつある菊の意識の中では、ほぼ確信のようになっていた。足に怪我らしい怪我がないことが、確かに『太郎さん』が言うように、幸運だった。まだ歩ける。急ぐことができる。少しだけ予感がしていたのだ。今日の午後に。今日、下校した後の菊と啓が、由加志の家に行った、その時にだ。
惺から引き継ぐことになったという、啓の絵の売り上げを使って、由加志がネットの通信販売で注文した絵具を受け取りに行ったのだ。その時に、受け取った箱を開けて、中身を出しながら検品していた啓が、不意にぼそりと言ったのだ。
「…………もしかすると、次で描き上がるかもしれない」
そのつぶやきに、菊も、それからいつもそうしているように部屋に人を上げたことで居心地悪そうにしていた由加志も、思わず顔を上げた。
「!」
「……マジか」
「うん。その可能性があるところまで来た」
啓は少しだけ二人の方に目をやって、うなずいて見せた。そして目を戻し、分類した絵具を自分のリュックサックにしまいながら、静かに淡々と続けて言った。
「いけるかもしれない、くらいだけど、ようやくそこまで来た。次で全体が完成しなかったとしても、その次にはいけると思うし、いくつかの部分は絶対次で終わる。最悪でも『こちょこちょおばけ』は、次で絶対に終わらせる」
「……!」
「おおう……」
その宣言に、菊と由加志は驚く。特に菊は、素直に目標の達成が見えたことを喜んだ。夏休みからずっと、二人でやってきたのだ。
悲願だ。惺と、留希を殺した『こちょこちょおばけ』への仇討ち。
それから『無名不思議』と、『ほうかご』全てへの反抗。
それが目の前に来た。頑張った甲斐があった。
だが、そう思いながらも菊の意識の奥底には、同時に何かモヤのような、うっすらとした不安感のようなものが湧いたのを、否定することができなかった。
そして、そんな菊の不安感を。
最初、一瞬は菊と同じように感心しかけた由加志が、まるで肯定したかのように、すぐに思い直した様子で首を横に振り、表情を苦々しいものに改めた。
「……いや、さすがに、このまますんなり終わる気がしない」
言った。
「なんか嫌な予感がする。おれの勘は当たるんだ。今日の『かかり』は気をつけた方がいいと思うぞ。絶対、あいつらはただやられてくれたりはしない」
「…………」
由加志が言語化したそれは、菊の奥底の不安感と、まさに同じものだった。
もしかすると明日にでも何かが起こって潰えるかもしれないと思いながら、それでも今までやって来たことが、実を結ぶ目前になったという希望。
そんな大きな希望の奥底で、同時に湧き上がる不安。
脳裏に浮かんだのは、以前、『太郎さん』が言っていた言葉だった。
――――たぶん『奴ら』は、子供の未来とか希望みたいなのを喰う。
抱いたこの希望に不安を抱えながら、それでもこの道を進む以外に道はなく、菊はそのまま夜を迎えて、十二時十二分十二秒のチャイムを聞いたのだった。
そして。
「………………っ!」