菊は、『ほうかご』に入った直後、教室からあふれ出した『テケテケ』に囲まれ、足をつかまれ、シャツをつかまれ、腕をつかまれ、尖った爪で腕のあちこちを裂かれて――――そして取り囲まれて壁に追い詰められた後、折り重なるようにして上半身に向けて迫って来た『テケテケ』に、深々と脇腹に噛みつかれた。
ぶち、と噛み破られた。音がした。体の外と、中で。
お腹の肉を深々と食い千切られ、持っていかれた。ぎょろぎょろと爬虫類のようにでたらめに眼球を動かしながら迫った『テケテケ』の頭部。その歪な形をした頭部に、骨格を無視して開いた口の中には、まるで鋭く尖った小石のような形をした歯がおぞましいほどの数、ずらりと並んでいて――――それがもみくちゃにされた中で露出してしまった脇腹に思い切り噛みついて、その肉を噛み切ったのだ。
「――――――――――――――――っ!!」
激痛。
明らかに内臓に触れられた、深い部分の不快感をともなった、生まれてから一度も感じたことのない激痛。
それが脇腹に灼熱して、悲鳴にならない悲鳴をあげた。恐ろしい痛み。おぞましい感覚。苦痛。悪寒。恐怖。全身の皮膚に、腹部から広がるようにして鳥肌と冷たい汗が吹き出して、視界が赤く、そして暗く、狭くなった。
恐怖した。生まれて初めて、本当に、本当に、命の危険を感じた。
必死になって身をよじり、箒を振り回した。生まれてから一度もしたことがない、本気の激しい抵抗だった。
「っ!!」
痛い!
苦しい!
死んじゃう!
頭の中が悲鳴で一色になる。しゃにむに箒を振り回した。箒が叩きつけられ、あるいは触れた『テケテケ』が怯んで、囲みに空いたその穴から、足をもつれさせそうになりながら逃げ出した。
「………………っ!!」
追ってくる異形の『テケテケ』。背中から迫る、ばちばちと床を叩く手のひら。かちかちと鳴る爪の音。奇怪な金切り声。それに向けて箒を振り回しながら、必死に逃げた。体に入った力で、走る振動で、脇腹の傷が立て続けに激しく痛んだ。
傷が、肌が、肉が、腹部が、千切れそうな痛み。
目の前が暗くなるほどの、内臓に響く苦痛。そんな痛みの根源から流れ出る奇妙なほど熱く感じる血と、対して冷たくなってゆく全身の感覚。
そんな状態で、まともに逃げられるはずもなく、すぐにまた足首をつかまれた。叩きつけられるように転んだ。昼間の菊がよくやるように。だがここでは意味が違う。襲われている。絶望する。もう振り切って逃げるような力は残っていないのだ。
ずざ、と引きずられた。冷たく硬くざらつく床の上を、『テケテケ』の方へ。
「うう……っ!!」
足元に、粘土と絵具と色紙を混ぜて造形したような、しかし明らかに肉でできたニンゲンが群れをなして折り重なり、波のように迫った。互いの血で血まみれになり、血まみれの手を無数に伸ばし、血まみれの顔面を壊れたように歪めた群れが、でたらめな並びで歯が生えた口を開け、身がすくむような金切り声を叫びながら菊へと向けて雪崩れ込んだ。
「ひ……!!」
思わず振り回した安物のトートバッグが、何本もの腕につかまれ、軽々と引きちぎられた。
紙のように。しかし何の抵抗にもならなかったそれが、ばらばらになった瞬間、菊の筆記用具と一緒に中に入っていたものが、空中にばら撒かれた。
それは塩。
一袋の塩。
塩の入ったビニール袋がバッグと一緒に空中で引き裂かれ、白い塩がその場に撒き散らされると、それが触れた途端、押し寄せていた上半身だけの異形の群れが、まるで熱湯でもかけられたかのように一斉に叫び声を上げて、菊から手を離して引き波のように下がった。
「!」
それを見た瞬間、菊は急いで箒を振るって、目の前の廊下に線を引いた。
廊下に撒き散らされた塩が箒でなぞられ、弧を描いた線が引かれると、その線にガラス窓を閉めたかのように隔てられて、群れが押し寄せる熱狂にも似た圧倒的な気配と異常な空気が、大きく弱まった。
菊は急いで力の入らない身を起こし、改めて線を、廊下の幅いっぱいに引き直す。はっきりと、濃く、強く。そんな菊に向けて、異形の群れは再度押し寄せようとしたが、塩で引かれた線がまるで壁であるかのように突き当たり、無数の手と爪と歯がそこを越えられず、空中をがりがりと引っかいた。
廊下に、壁が出来上がる。
自分の流した血と混ざって、まだらになった塩の線と、それを境にした見えない壁。
「………………はあーっ…………はあーっ…………」
菊は、その光景を前に、肩で息をしながら、立ち尽くした。
壁に阻まれた、恐ろしい異形の群れ。それらが何もない空中を引っかくたびに、床に引かれた塩の線が、まるで空中まで繋がっている硬い土壁であるかのように、少しずつ少しずつ削れて、厚みを減らしていた。
「………………!」
いつまでもここにはいられない。
それほど経たずに、ここは破られる。だが呼吸と心を整える時間が、ほんの少しでも今は必要だった。
どうしよう?
絶望的な状況を前にして、考える。
まずは逃げないと。とりあえず逃げて、『開かずの間』まで行って、それから、そこでいつものように合流を――――――
「……二森くん」
はっ、と気がついた。
今の状況。終わりの始まり。午後に感じたあの予感。全てが頭の中で繋がった。これが偶然であるはずがなかった。
啓が、絵を終わらせようとしている。その宣言があった矢先の、この崩壊。
必然だと思った。『無名不思議』が、化物たちが、啓が至ろうとしている結末を喰らおうとしている。啓と菊の、復讐心と努力と、惺や由加志の協力と思い出と、悲劇と、思いと、希望と、これまでの人生を、いま最後の悲劇の物語に変えて、余すことなく食い尽くそうとしているのだ。
終わりだ。
終わりが来たのだ。
急がないといけない。啓を助けないと。
どこにいるだろう? どこで襲われるか分からない。何が襲ってくるのか分からない。なぜなら菊は、そして何より啓も、いまや全ての『無名不思議』の記録者なのだ。どれが啓を喰らいに現れるのか分からなかった。