「――――行かないと」
菊は、今にも倒れそうな自分を奮い立たせるために、小さく声に出してつぶやいて、この場を離れて歩き出した。
ぐずぐずと痛んで出血を続ける脇腹を、明らかにえぐれているその場所を、ずきずきと痛む手でシャツ越しに押さえて、箒を引きずって。
ともすれば暗くなっていきそうになる目の前を、必死で意識をかき集めて。
急いで、早足で、しかし明らかにふらつきながら、それでもとにかく、前へと進んだ。
「…………っ!」
まずは『開かずの間』へ。何もなければ、啓はそこにいるはずだ。
だがいなかった。やっぱりまだ来ていなかった。絶対に、啓の身に何か起こっているに違いなかった。
血だらけの菊を見て『太郎さん』が引き止めたが、無視して『開かずの間』を後にした。
急がないと。いま啓は、どこにいるんだろう?
屋上を目指した。心当たりは、まずはそこだった。
啓の最初の場所。階段を登る。痛みに耐えながら。血を流しながら。
自分が危険だということも分かっていた。だんだんと痛みが麻痺してきて、代わりに体が冷たくなってきていた。血が出すぎていた。自分の命が外に流れ出していることを、はっきりと菊は感じていたが、それよりも啓の方が、はるかに大事だった。啓の役に立つことの方が、はるかに大事だった。
自分の命よりもだ。
ずっと、ずっと、菊はいらない子だった。何の役にも立たない子だった。
誰の役にも立てない子だった。何の役にも立たない子。何の取り柄も持っていないようにしか見えない人間を、庇ってくれる人はいても、真正面から見てくれる人はいない。そんな菊を啓は必要としてくれた。正面から見てくれた。正面から見て、そして、あんな上手な絵にまでしてくれた。
菊が何かの主役だったことは、この時まで一度もない。
菊が主役として何かのフレームに収まっていたことは、一度もない。
何の役にも立たない菊をフレームに収める人は、誰もいなかった。そして菊の『狐の窓』というフレームに収まるのは、得体の知れない化け物ばかりだった。
そして、それを知られれば、菊も得体の知れない化け物の仲間にされるだろう。
菊の『狐の窓』のことを知られれば、菊が『狐の窓』で見る化け物と同じように、周りから見られるだろう。
だから秘密にしていた。それでいいと思っていた。
そうおばさんから言われてきたから。納得していた。だが今は。
菊は今――――ありのままを見てもらえている。
啓の役に立てていた。『狐の窓』を覗く、ありのままの菊を、啓に必要とされていた。
それは、納得していたはずの菊の、心の底では望んでいた夢。啓と出会ったあの時から、菊はずっと、今日の今まで、夢のような日を過ごしているのだ。
だから。
意味がないのだ。啓が――――菊よりも先に死んだら。
啓が死んだら、全てが無に還る。叶った夢も、夢のような日々も、これまでの努力も、役に立った自分の存在も、やっと手に入れたものが、全て後悔と絶望に変わって、何もかも残らず無に還るのだ。
だから、啓を守る。守らないといけない。
だから、啓が絵を描くのを守るために、少しでも啓を襲う『無名不思議』を引き受けるために、菊も全ての『無名不思議』の『記録』にサインして、啓が絵を描いているあいだ、自分もそれらの記録をつけたのだ。
啓には言っていないが、すでに菊の日常生活は、『無名不思議』に侵食されていた。
部屋に空いた黒い穴。不意に目に入る赤い人影。紫色に光る鏡と、その中を泳ぐようによぎる髪の長い人影に、ドアを開けたとたん見える天井から吊り下がった赤い袋と、その中から聞こえる着信音。
それは、忍び寄る破滅の指先。
いずれ来る、決定的な死へのカウントダウン。だがそれらに日々を脅かされても、菊は何もない顔をして耐えられた。
今までもずっと、そうしてきたから。
今までもずっと、この世のものではない何かに、菊は脅かされ続けていたから。
それがひどくなったくらい、耐えられる。それに菊はいま、夢が叶っていた。心の底で夢見ていた、誰かにありのままを見てもらえて、誰かの助けになって、誰かに頼られる自分を、いや、それ以上のものを手にしていた。
全て、啓が与えてくれた。
その啓のための我慢が、つらいはずがなかった。
たとえその先の破滅が自分に降りかかったとしても構わない。啓を守るために、自分の命を投げ出す覚悟はできていた。
啓との日々は、夢だ。
啓が先に死んでそれが失われるくらいなら、菊は今ここで夢のまま死ぬ。
だから菊は進む。苦痛で重くなってゆく体と、暗くなってゆく意識に鞭打って。息をするだけでも死に近づいてゆく自分を感じながら、自分の全てを振り絞って、確信と共に、菊は階段を登り続ける。
啓を守って、啓の代わりに死ねるなら、それは幸せに違いない。
自分を見てくれる啓のために死んで、その死さえも見てもらえるなら、それは幸せなことに違いない。
心残りはなかった。今まで菊はいないも同然の人間だったのだから。
あるとすれば、惺の死でなくなってしまった、動画の完成を見たかったことだけ。
はあっ……はあっ……
菊は、自分の耳いっぱいに聞こえる、苦しい呼吸の中。
ただ、光へ向かう魚のように、上を向いて、屋上を目指して階段を登った。
重い体。遠くなってゆく音。
暗くなってゆく、狭まってゆく視界と、世界。そんな中を延々と光に向かって、啓のいる場所に向かって、ひたすら階段を登り続け、トンネルを抜けるように、ようやく屋上へと辿りついた菊は――――――
そこで、梯子の上に避難した啓に襲いかかる〝留希〟の姿を見て。
無我夢中で「やめてっ……!!」と叫び、最後の力で箒を振り上げて、〝留希〟へと向けて叩きつけた。