ほうかごがかり 3

十話 ③

「――――行かないと」


 きくは、今にもたおれそうな自分を奮い立たせるために、小さく声に出してつぶやいて、この場をはなれて歩き出した。

 ぐずぐずと痛んで出血を続けるわきばらを、明らかにえぐれているその場所を、ずきずきと痛む手でシャツしに押さえて、ほうきを引きずって。

 ともすれば暗くなっていきそうになる目の前を、必死で意識をかき集めて。

 急いで、早足で、しかし明らかにふらつきながら、それでもとにかく、前へと進んだ。


「…………っ!」


 まずは『開かずの間』へ。何もなければ、けいはそこにいるはずだ。

 だがいなかった。やっぱりまだ来ていなかった。絶対に、けいの身に何か起こっているにちがいなかった。

 血だらけのきくを見て『ろうさん』が引き止めたが、無視して『開かずの間』を後にした。

 急がないと。いまけいは、どこにいるんだろう?

 屋上を目指した。心当たりは、まずはそこだった。

 けいの最初の場所。階段を登る。痛みにえながら。血を流しながら。

 自分が危険だということも分かっていた。だんだんと痛みがしてきて、代わりに体が冷たくなってきていた。血が出すぎていた。自分の命が外に流れ出していることを、はっきりときくは感じていたが、それよりもけいの方が、はるかに大事だった。けいの役に立つことの方が、はるかに大事だった。

 

 ずっと、ずっと、きくはいらない子だった。何の役にも立たない子だった。

 だれの役にも立てない子だった。何の役にも立たない子。何のも持っていないようにしか見えない人間を、かばってくれる人はいても、真正面から見てくれる人はいない。そんなきくけいは必要としてくれた。正面から見てくれた。正面から見て、そして、あんな上手な絵にまでしてくれた。

 きくが何かの主役だったことは、この時まで一度もない。

 きくが主役として何かのフレームに収まっていたことは、一度もない。

 何の役にも立たないきくをフレームに収める人は、だれもいなかった。そしてきくの『きつねの窓』というフレームに収まるのは、得体の知れない化け物ばかりだった。

 そして、それを知られれば、きくも得体の知れない化け物の仲間にされるだろう。

 きくの『きつねの窓』のことを知られれば、きくが『きつねの窓』で見る化け物と同じように、周りから見られるだろう。

 だから秘密にしていた。それでいいと思っていた。

 そうおばさんから言われてきたから。なつとくしていた。だが今は。

 きくは今――――ありのままを見てもらえている。

 けいの役に立てていた。『きつねの窓』をのぞく、ありのままのきくを、けいに必要とされていた。

 それは、なつとくしていたはずのきくの、心の底では望んでいた夢。けいと出会ったあの時から、きくはずっと、今日の今まで、夢のような日を過ごしているのだ。

 だから。


 意味がないのだ。けいが――――きくよりも先に死んだら。


 けいが死んだら、全てが無にかえる。かなった夢も、夢のような日々も、これまでの努力も、役に立った自分の存在も、やっと手に入れたものが、全て後悔と絶望に変わって、何もかも残らず無にかえるのだ。

 だから、けいを守る。守らないといけない。

 だから、けいが絵をくのを守るために、少しでもけいおそう『無名不思議』を引き受けるために、きくも全ての『無名不思議』の『記録』にサインして、けいが絵をいているあいだ、自分もそれらの記録をつけたのだ。

 けいには言っていないが、すでにきくの日常生活は、『無名不思議』にしんしよくされていた。

 部屋に空いた黒い穴。不意に目に入る赤いひとかげむらさきいろに光る鏡と、その中を泳ぐようによぎるかみの長いひとかげに、ドアを開けたとたん見えるてんじようからがった赤いふくろと、その中から聞こえる着信音。

 それは、しのめつの指先。

 いずれ来る、決定的な死へのカウントダウン。だがそれらに日々をおびやかされても、きくは何もない顔をしてえられた。

 今までもずっと、そうしてきたから。

 今までもずっと、この世のものではない何かに、きくおびやかされ続けていたから。

 それがひどくなったくらい、えられる。それにきくはいま、夢がかなっていた。心の底で夢見ていた、だれかにありのままを見てもらえて、だれかの助けになって、だれかにたよられる自分を、いや、それ以上のものを手にしていた。

 全て、けいあたえてくれた。

 そのけいのためのまんが、つらいはずがなかった。

 たとえその先のめつが自分に降りかかったとしても構わない。けいを守るために、自分の命を投げ出すかくはできていた。


 けいとの日々は、夢だ。

 けいが先に死んでそれが失われるくらいなら、きくは今ここで夢のまま死ぬ。


 だからきくは進む。苦痛で重くなってゆく体と、暗くなってゆく意識にむちって。息をするだけでも死に近づいてゆく自分を感じながら、自分の全てをしぼって、確信と共に、きくは階段を登り続ける。

 けいを守って、けいの代わりに死ねるなら、それは幸せにちがいない。

 自分を見てくれるけいのために死んで、その死さえも見てもらえるなら、それは幸せなことにちがいない。

 心残りはなかった。今まできくはいないも同然の人間だったのだから。

 あるとすれば、せいの死でなくなってしまった、動画の完成を見たかったことだけ。


 はあっ……はあっ……


 きくは、自分の耳いっぱいに聞こえる、苦しい呼吸の中。

 ただ、光へ向かう魚のように、上を向いて、屋上を目指して階段を登った。

 重い体。遠くなってゆく音。

 暗くなってゆく、せばまってゆく視界と、世界。そんな中を延々と光に向かって、けいのいる場所に向かって、ひたすら階段を登り続け、トンネルをけるように、ようやく屋上へと辿たどりついたきくは――――――


 そこで、梯子はしごの上になんしたけいおそいかかる〝〟の姿を見て。

 ちゆうで「やめてっ……!!」とさけび、最後の力でほうきげて、〝〟へと向けてたたきつけた。

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