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「堂島さん……?」
呆然と、つぶやく啓。
足元に菊が横たわっている。血まみれ。血だまり。血の中に、菊は横たわっていた。
壁に身を預けて、横倒しに、自分の流した血の中に横たわる菊。血の気の失せたひどく白い肌。その顔色は素人にさえ分かるくらいの、明らかに危険な、いや、明らかにその先の、顔色をしていた。
そんな白い肌が、血の赤と、強いコントラストを作っていた。
そして静かに、静かに、横たわっていた。
「なあ、堂島さん……」
呆然と、呼びかける啓。
菊は答えなかった。目を閉じたまま、静かに。眠っているかのようだった。
伸びた髪が顔にかかっていて、表情のほとんどは見えない。
だが、血で汚れた頬と、そこに見える口元は、かすかにほころんで、微笑んでいるように見えた。
「なあ……」
力なく呼ぶ啓。その頭上には、巨大な虚無が、音もなく広がっていた。
黒い空。今ここで起こった出来事を、今まで起こった出来事を、この学校そのものを、そしてその中で立ち尽くす啓を、何もかもあまりにも矮小なものとして、完全に覆い尽くしている広大無辺の暗闇が。
その真っ暗で、空っぽで、あまりにも巨大な空の下で。
啓はかがんで手を伸ばし、横たわる菊の頬に、触れる。
冷たい頬。呼吸はない。人形のように。
だが彼女は人形ではない。啓は何もできず、その頬に血で貼りついている髪の毛を、そっとどけた。
しばし、その横顔を見下ろした。
頭上の空が、ただ黒く、巨大に、無限にうねりながら、屋上にたたずむ啓と、血だまりの中に横たわる菊と、正門に続く血の痕の先で動かなくなった留希を、それからグラウンドに立ち並ぶたくさんのたくさんの墓標を、無慈悲に見下ろしていた。
「……なんなんだよ」
啓の口から、言葉がもれた。
小さく、ぼそりと。それは先に、正門の留希を見下ろして発した言葉と全く同じものだったが、そこに込められた虚無は、さらに大きくなっていた。
心の、感情の、ほぼ全てが失われたかのような、胸に空いた空洞。
ごっそりと自分に空いた、あまりにも大きなその穴のせいで、身動きができなかった。手足に力が入らなかった。
あまりにも、無慈悲で広大な世界。
全てに意味などないかのように、広大で空っぽな世界。その中で自分はあがいていた。あまりにもちっぽけな、自分が。
この世界の中で、みんな、みんな、死んだ。
惺が、菊が、真絢が、イルマが、留希が死んでいき、いま自分だけが一人、虚無の中に取り残されている。
「……なんだよ、この地獄」
啓はつぶやく。
自分のやっていることに、やってきたことに、急に意味を見失った。
惺の仇を討つため。今までずっと、その一心でやってきた。いや、正直に言うならば、その他のことを考えないようにしていた。
本当は、心の底では、啓は仇討ちが成るとは考えていなかった。
惺のための行動だったのは間違いない。だがこれは、同時に途中で斃れることが前提の、啓が『ほうかご』で死ぬための、そしてこの世から消えるための行動だった。
菊よりも、さらに言うならば惺よりも、自分が先に死ぬはずだった。なのに自分だけが生きて、ここにいる。啓が守るつもりだった惺は、啓の目も手も届かないところで斃れ、啓の最後まで付き合わせるつもりはなかった菊は、最後に啓のことを守って斃れた。
なんでだ? 何を思って?
なんなんだこの地獄は? こんなことを続ける意味が、本当にあるのか?
もうみんな、いなくなったのに?
フェンスの外を見た。ここから、この屋上から飛び降りれば、何もかも全部終わるんじゃないのか? 今からでもそうするべきなんじゃないのか? 最初から、啓が『ほうかご』に呼び出された最初の最初から、『まっかっかさん』が誘っていたように。
「――――――」
そうして、菊を見下ろしていた啓は。
ふと、そんな絶望に満ちた、自分の思考の端が――――菊の血で汚れた白い頬をどの絵具でどのように塗れば再現できるかと、考えていることに気がついた。
「――――――――――――――――ははっ」
啓の口元に笑みが浮かんだ。絶望と、自虐の笑いだった。
こんな時にまで絵のことを考えていた自分に対しての絶望。それから菊への申し訳なさ。彼女をモデルに『オフィーリア』でも描くつもりか? だとしたら、ここにいるのは人間じゃあなかった。絵に取り憑かれた化け物だった。
かつて幼い啓にとって、絵は恐怖の克服のためのものだった。
自分を脅かす化け物を、絵に描くことで克服する。そうやって生きてきた。だがそうするうちに、いつの間にか、自分こそが絵を描く化け物になっていた。
死んだ友達を、どうやって美しく描こうかと考えるような化け物に。菊はそんな化け物につきあわされた。そしてそんな化け物を守って斃れ、その死さえも、命を捨てて守ったはずの化け物の中で絵にされようとしている。
「…………」
啓は、のろのろと立ち上がり、梯子を登って、屋根の上に戻った。
そして絵の道具をリュックサックにしまい直し、キャンバスをかついで、梯子を降り、菊の前まで戻ってきた。
「………………ごめんな」
そして謝る。つぶやくように。
菊が何を思いながら最期を迎えたのか、啓には分からない。どうしてこんなことになったのかも分からない。襲われて大怪我をして、助けを求めてここに来て、啓を助けて力尽きたのだろうか? それとも大怪我をしているのに、ただ啓を助けるために、死んでしまうのに、こんなところまで来てしまったのか?
分かるのは、絵描きと助手として、一緒に歩き回った日々のことだけ。
分からないから、謝るしかなかった。啓は化け物だから。その死までも冒涜しようとした、怪物だから。
啓は、菊を残して歩きだす。
屋上に放置されていたイーゼルを拾い上げ、肩にかつぎ、それから入口の明かりの下に落ちたパレットナイフを拾って、扉をくぐって校舎の中へ戻る。
「――――――――」
途端に周囲を埋める、校舎を満たしている薄暗がりと、砂を流すようなノイズ。
その中を啓はただ一人、階段を降りてゆく。
感じた。校舎の空気が、なんだか騒がしかった。
何かの物音がするわけではない。声がするわけではない。ただ学校の中を満たしている気配が普段とは違った。いつもは体の芯から不安を引きずり出されていると感じるほど、異様なまでに静謐な『ほうかご』の気配が、今はひどくざわめいていた。何かがあるわけではないのだが、雰囲気が奇妙に騒がしいのだ。
視線を感じる。
どことも、誰とも知れないが、見られている。
まるで、学校そのものが自分を凝視しているかのように、虚空から視線を感じる。
学校が。『ほうかご』が。
最後に残った自分を今まさに喰おうとしているのだろうか? 『無名不思議』に最後の牙を突き立てようとしている自分を、わずらわしい自分を、今まさに、ここで排除しようと動きだしたのだろうか?
だったらやればいい。僕はここにいる。
圧力めいた視線を受けながら、ノイズを浴びながら、薄暗がりの校舎を、啓は歩く。
そして啓は、歩き続け。やがて『開かずの間』にたどり着き、音を立てて扉を開けた。