「……二森君か」
気づいた『太郎さん』が、振り返って啓を見た。珍しく少し焦っている『太郎さん』は、珍しく啓の方を凝視し、啓の近くに誰もおらず、一人だけだということを見て取ると、焦った様子のまま啓に訊ねた。
「堂島さんは?」
「……」
啓は、黙って首を横に振った。
無表情に。それを見た『太郎さん』は、全てを察した様子で、天を仰ぎ、忌々しそうに片手で目元を覆った。
「……だから言ったんだ……!」
「なあ、聞きたいことがあるんだけど」
啓は、対照的なくらいに淡々と、『太郎さん』に問いかけた。
「ここで死んだ人間を、埋めずに放っておいたら、どうなるんだ?」
「…………分からないよ。僕はここから動けないんだぞ」
目元を手で覆ったまま、苛立たしげに、それでも『太郎さん』は答える。様子はそれどころではなさそうだが、それでも義務を果たそうとするかのように、説明だけはよどみなく、口から紡ぎ出される。
「ただ、全滅した前の年の最後の『かかり』の死体が、次の年に残ってたって話は聞かないから、消えるのか化け物に食われるのかは知らないけど、リセットはされるらしい」
「そっか」
それを聞くと啓は、部屋の隅へと歩いて行って、棚の隙間に手を入れて、そこに押し込んであった長い木の板や棒をいくつか引きずり出した。
それは歴代の『かかり』が、見つけたり持ち込んだりして〝墓標〟用にストックしてあるもので、啓は棚に置いてある紐と合わせて二本の十字架を作ると、自分で油絵具でそれぞれ名前を書き込んだ。
堂島菊
小嶋留希
と。
それらを少し眺めた後、啓は二人の名前の横に、西洋の古い豪華本にあるような、小さな装飾の模様を描き加えた。
花と。
小鳥を。
それを飾る蔦と葉の植物の模様を。途中からその作業を黙って見ていた『太郎さん』は、どこか気落ちしたような、神妙な顔で確認した。
「……二人のお墓か。埋めるのは……キミ一人じゃ無理だよな」
「無理。だからこれだけ立てる」
啓は、『太郎さん』の方を見ずに答えた。
「リセットされたら、この世に、この二人のためのものがなくなるから」
「まあ……そうだな」
啓の言葉に、『太郎さん』はそう応じたが、啓は目も合わせずに荷物を背負い直し、キャンバスとイーゼルに加えて作ったばかりの二本の墓標も肩にかついで、そのまま『太郎さん』に背を向けた。
そして言った。
「じゃあ。会うのはこれで最後かもな」
「……は?」
「さっき分かったけど、たぶん『記録』が完成しそうになった『無名不思議』は、こっちを殺しにくる。僕はこれから絵を仕上げに行く。だから最後かもしれない」
「は!?」
驚く『太郎さん』の声。それに背を向けたまま、啓は『開かずの間』を出る。
「おい、待てよ!」
「じゃあね」
扉を閉めた。
「おい!」
「ごめんな、早い終わりで。たぶん僕がいたからだ。いつか、誰も死なない『かかり』になる日が来るといいな」
言い残す。多分、自分のせいなのだろう。さっき屋上で思った。きっと啓がいたから、啓が絵が描けたから、そして啓が『ほうかご』のスケッチを続けていたから、『奴ら』はこんなにも早く育って、啓たちはこんなにも早く死んでゆくのだろう。
「……キミらは! そうやって、いつもいつも!」
部屋の中から、扉越しに『太郎さん』の声。
「いなくなるなら、僕を嫌えよ! 優しくするなよ! どいつもこいつも、なんで僕に謝るんだよ! 死ぬのは僕じゃなくて、キミらなんだぞ!」
その怒鳴り声を背中に聞きながら、啓は立ち去る。これでお別れだ。もう戻って来るつもりはない。
最初こそもちろん反感があったが、こうなってみると、啓は『太郎さん』を別に嫌ってなどいなかった。いくらかの同情もあった。彼の状況に。死にゆく啓たちと、残され続ける『太郎さん』。どちらがマシなのかは、分かったものではなかったけれども。
「…………」
そして啓は、一人、廊下を歩く。
ひどく静かな足取りで。すっかり慣れた迂回をして、そして玄関から外に出て、真っ暗闇の空の下、グラウンドに足を踏み入れる。
みすぼらしい墓標の立ち並ぶ墓地と化したグラウンドで、啓は一度イーゼルとキャンバスを置くと、そこに突き刺してあった、いつ誰がそうしたのかも分からないスコップを一本引き抜いた。そして体格に合わない大きさの、いくつの墓穴を掘ったのかも知れないそれで、真絢とイルマの墓標の近くに二つの穴を掘って、そこに新たな墓標を立てた。
菊と、留希。
啓は、少しのあいだその二つを見下ろすと、またスコップを地面に突き刺して、イーゼルとキャンバスを背負い直し、正門まで歩いた。
門の鉄格子の向こうに、倒れ伏す子供の死体。
留希の死体。門の外を取り囲んで並ぶ亡霊の足元に、うつ伏せに、力尽きたように倒れているそれを、啓はしばらくのあいだじっと見つめ、やがて背を向けて、イーゼルとキャンバスをまた一度下ろし、そこに立つ校舎を見上げた。
「…………」
黒い空を背に、圧倒するように聳える、校舎。
それを見上げる啓。不気味で静謐だった校舎は、いまこうして見上げると、威圧的で巨大な群体めいた、生命の気配を渦巻くように放っていた。啓へと向けて覆い被さらんばかりの、その存在としての情報量。それに啓はさらされて、目眩を起こすかと思うほどだった。
ぞ、
と音もなく、後者は、啓を見下ろす。
たぶん学校が、目を開け、そして、口を開けていた。
学校と、それからこの『ほうかご』という空間の全てが、口を開けていた。その内に『無名不思議』という異常な存在を内包した、この空間という形をした〝生き物〟が――――人間が知っている生き物という概念からはかけ離れた〝存在〟が――――いま啓を喰らうために目と口を開けているのだと、人間からはそうとしか表現できない変容をしたのだと、啓は、素直な子供と卓抜の絵描きという二つの感性を併せ持った五感で、そう認識した。
窓という窓が巨大な目で、その無数の目によって、見下ろされているかのような感覚。
いや、もっと正確にたとえるならば、この『ほうかご』という存在の、人間で言うならば視覚に相当する知覚が、いま校舎の中を完全に満たしていて、それが窓を感覚器として膨大に放射され、それが今まさに自分を捕えているのだという、産毛が逆立つような感覚。
「……」
圧倒され、冷や汗を浮かべてそれを見上げながら、ふと、頸に手をやった。
血で汚れた首筋。そこは屋上で〝留希〟に襲われた時に、刺された場所だった。
そこに穴があった。