ほうかごがかり 3

十話 ⑥

 傷があるのは分かっていた。だがふとしたかんがあって、ほとんど無意識でれたその場所に、その首筋のに、傷ではなく痛みもない、指も入らないくらいの穴が、と小さく空いていたのだ。

 その穴のかんしよくが指先にれて「えっ」と思ったしゆんかん

 穴の中から小さな指が、幼虫がうごめくようにして、けいの指の腹を、


 もぞ、


 とでた。


「!?」


 さわられた。

 おぞましいかんしよく

 思わずとりはだが立った。身の内に『何か』がいた。

 だがすぐに、けいは気を取りなおして、一度見開いた目を徐じよに細め、心を、気持ちを、落ち着けた。

 だいじようだ。大したことない。

 なぜならこれは『こちょこちょおばけ』で、『こちょこちょおばけ』の絵は、けいがほぼ完成させたからだ。

 背後にあるの死体を意識しながら、そう思う。

 こいつは、もうこれくらいしかできない存在になった。けいが、そのほぼ全てをキャンバスにき切ったのだから、もうけいの知っていることしかできないのだ。それならば、もうそれほどこわくはない。

 けいは、くちを、少しだけみの形にゆがめた。

 暗いみだった。そしてくびから手をはなし、下がっていた視線を上げて、この『こちょこちょおばけ』の母体であり、今までけいの前で失われてきたもの全てのかたきである、『ほうかご』の学校を、再び見やった。

 目覚めているのを感じた。

 ねむっていた学校が、全ての『無名不思議』が目覚め、うごめいているのを感じた。全ての異常とちようじようじんが、生き物として活性化していた。

 けいが、絵をいているから。

 それらをのぞき込んで、げきしたから。そしてそれを続けていたから、そろそろそんなけいの存在をらおうとして、いまかまくびをもたげている。


「………………!」


 それは、きよだいきよう

 こうしているだけで息が上がる。心臓がはやがねを打つ。自責の念がこくえんのように胸の中にがる。こんなものに安易にれたから、きっとみんな死んだのだ。

 だが。

 思った。


 僕は、絵の化け物だ。

 なら、その化け物が、やるべきことをやる。


 この学校の絵を、ここで完成させる。命とえにしてでも。このくらいのじやでは、止まる気はなかった。さあ、殺すなら殺せばいい。元よりここから生きて帰る気など、けいにはないのだ。

 この命がなくなる時まで、止まる気はなかった。

 これからけいは、死ぬまでき続けるつもりだった。

 そうしなければいけなかった。

 せめてそうしなければ。そうでなければ――――けいは、

 きくが目の前で死んだというのに、じゆんすいに、ただ悲しむこともできなかった。

 よりにもよって、絵のことを考えた。けいこわれている。こんなきの化け物は、せめてそうしなければ、申し訳が立たない。

 だからけいは、そびえ立つ校舎と、頭上と世界を満たしているぼうだいくらやみの、きよだいな重圧の下でリュックサックを開け、できるだけ効率的に必要な道具を取り出してさいしきに取りかかれるように、らないものは出し、中身を整理した。

 これを終えて、せば、きっともう帰れない。

 だがちゆうちよはなかった。けいにはもう、何も残っていないのだ。

 みんな、みんな、死んだ。

 けいに残った大事なものは、あとは母親だけだった。

 ここで自分が死ぬことで、自分の存在が消えて、自分のことを忘れてしまって、自分から解放されるはずの母親。それを思って、けいは心残りなく、死に向かうことへの、最後のかくを決めた。

 そんな母親と、最後にしたやりとりをおもかべた。

 いつもの朝の、


「じゃあ、行ってくるね」

「うん」


 という、そっけないやりとりを。

 けいは、おもかべた心の中の母に言う。

 だれにも聞こえないような小さな声で。今度は、こっちから。


「――――じゃあ、行ってくる」


 別れの言葉を。

 きっと、もう会えない。けいは今から、あのそびえる化け物の中にもどる。

 あの、化け物のように息づく校舎の中に、もどる。もどって、それぞれの『無名不思議』の絵を完全に仕上げるために、最後の仕上げができるほどの細部を間近で観察するために、けいは『無名不思議』の下に向かうのだ。

 けいは死ぬだろう。

 だがもしも、キャンバスの上にいた全ての『無名不思議』を仕上げることができた、そのあかつきには。最後にこの場所にもどってきて、校門の前にイーゼルを立てて、この校舎を見上げて、最後の仕上げをしてやるのだ。


「……よし」


 けいは準備を終えた荷物を、背負い直した。

 そして足をした。化け物の、口の中へと。

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