傷があるのは分かっていた。だがふとした違和感があって、ほとんど無意識で触れたその場所に、その首筋の皮膚に、傷ではなく痛みもない、指も入らないくらいの穴が、ぷつりと小さく空いていたのだ。
その穴の感触が指先に触れて「えっ」と思った瞬間。
穴の中から小さな指が、幼虫がうごめくようにして、啓の指の腹を、
もぞ、
と撫でた。
「!?」
触られた。
おぞましい感触。
思わず鳥肌が立った。身の内に『何か』がいた。
だがすぐに、啓は気を取りなおして、一度見開いた目を徐々に細め、心を、気持ちを、落ち着けた。
大丈夫だ。大したことない。
なぜならこれは『こちょこちょおばけ』で、『こちょこちょおばけ』の絵は、啓がほぼ完成させたからだ。
背後にある留希の死体を意識しながら、そう思う。
こいつは、もうこれくらいしかできない存在になった。啓が、そのほぼ全てをキャンバスに描き切ったのだから、もう啓の知っていることしかできないのだ。それならば、もうそれほど怖くはない。
啓は、口の端を、少しだけ笑みの形に歪めた。
暗い笑みだった。そして頸から手を離し、下がっていた視線を上げて、この『こちょこちょおばけ』の母体であり、今まで啓の前で失われてきたもの全ての仇である、『ほうかご』の学校を、再び見やった。
目覚めているのを感じた。
眠っていた学校が、全ての『無名不思議』が目覚め、蠢いているのを感じた。全ての異常と超常と理不尽が、生き物として活性化していた。
啓が、絵を描いているから。
それらを覗き込んで、刺激したから。そしてそれを続けていたから、そろそろそんな啓の存在を喰らおうとして、いま鎌首をもたげている。
「………………!」
それは、巨大な恐怖。
こうしているだけで息が上がる。心臓が早鐘を打つ。自責の念が黒煙のように胸の中に湧き上がる。こんなものに安易に触れたから、きっとみんな死んだのだ。
だが。
思った。
僕は、絵の化け物だ。
なら、その化け物が、やるべきことをやる。
この学校の絵を、ここで完成させる。命と引き換えにしてでも。このくらいの邪魔では、止まる気はなかった。さあ、殺すなら殺せばいい。元よりここから生きて帰る気など、啓にはないのだ。
この命がなくなる時まで、止まる気はなかった。
これから啓は、死ぬまで描き続けるつもりだった。
そうしなければいけなかった。
せめてそうしなければ。そうでなければ――――啓は、菊に申し訳が立たなかった。
菊が目の前で死んだというのに、純粋に、ただ悲しむこともできなかった。
よりにもよって、絵のことを考えた。啓は壊れている。こんな絵描きの化け物は、せめてそうしなければ、申し訳が立たない。
だから啓は、そびえ立つ校舎と、頭上と世界を満たしている膨大な暗闇の、巨大な重圧の下でリュックサックを開け、できるだけ効率的に必要な道具を取り出して彩色に取りかかれるように、要らないものは出し、中身を整理した。
これを終えて、踏み出せば、きっともう帰れない。
だが躊躇はなかった。啓にはもう、何も残っていないのだ。
みんな、みんな、死んだ。
啓に残った大事なものは、あとは母親だけだった。
ここで自分が死ぬことで、自分の存在が消えて、自分のことを忘れてしまって、自分から解放されるはずの母親。それを思って、啓は心残りなく、死に向かうことへの、最後の覚悟を決めた。
そんな母親と、最後にしたやりとりを思い浮かべた。
いつもの朝の、
「じゃあ、行ってくるね」
「うん」
という、そっけないやりとりを。
啓は、思い浮かべた心の中の母に言う。
誰にも聞こえないような小さな声で。今度は、こっちから。
「――――じゃあ、行ってくる」
別れの言葉を。
きっと、もう会えない。啓は今から、あの聳える化け物の中に戻る。
あの、化け物のように息づく校舎の中に、戻る。戻って、それぞれの『無名不思議』の絵を完全に仕上げるために、最後の仕上げができるほどの細部を間近で観察するために、啓は『無名不思議』の下に向かうのだ。
啓は死ぬだろう。
だがもしも、キャンバスの上に描いた全ての『無名不思議』を仕上げることができた、そのあかつきには。最後にこの場所に戻ってきて、校門の前にイーゼルを立てて、この校舎を見上げて、最後の仕上げをしてやるのだ。
「……よし」
啓は準備を終えた荷物を、背負い直した。
そして足を踏み出した。化け物の、口の中へと。