ほうかごがかり 3

十話 ⑧


「ただいまー……」


 すっかり日付が変わってしまった深夜。と言っても、こんな時間に帰宅するのもめずらしくはない時間に、もりめぐみは帰宅した。

 小さな声で、一応、帰宅の声かけをする。そして明かりもなく、静まり返っている家の中をかくにんして、きっとねむっているのだろうけいを起こさないよう、あまり音を立てないように気をつけて、げんかんのドアを閉めた。

 電気をける。入ってすぐの、広くはないキッチンとダイニングが明るくなり、片付けの行き届いていないあれこれがあらわになる。このしゆんかん、いつも申し訳ない気分になるが、それでもまとまった時間が取れる見込みは、残念ながら今のところない。

 キッチンに目をやる、すでに洗って、水切りに入れて、きんがかけてある食器。

 けいが自主的にやってくれたものだ。ありがとう。ごめんね。

 けいを守るためにこんをして、その決断はちがっていたとは思っていないが、そのせいでけいに不自由をいているのはちがいなくて。自立して生活したいという願いは自分のわがままなのではないかと、もっといいやり方があったのではないかと、本当にこれでよかったのだろうかと、自問しない日はなかった。

 めぐみは思う。けいに、幸せであってほしい。

 それだけが願いだった。ただ本当にそれができているのか、自信はない。

 時々、ひどく不安になる。当のけいが飄ひようとしているので、それに救われているが、それに甘えていていいはずがない。めぐみは、仕事に着ていったキッチリとしたシャツのボタンを外しかけた手を止めて、自分がる部屋とダイニングをへだてている、戸の方をながめた。


「…………」


 この部屋のさらに向こうにある、ふすまの向こうの、けいの部屋を思いながら。

 そして、そこでねむっているはずのけいのことを思いながら。めぐみは複雑な表情で一人、冷蔵庫が立てるモーター音がひどく大きく聞こえるばかりの、深夜のアパートの静けさの中にくした。

 今、仕事がいそがしい。それはまぎれもない事実だ。

 はんぼう期に入ってゆうがなかった。今だけではない、先のことを考えると、いくらかの補助があってなお、家計をする収入を得るのは大変だった。

 しかし、そんな時だが、けいについて、今まさに気がかりがあった。

 けいがここのところずっと、やつれて見えるほど、何かにぼつとうしているのだ。

 いや、その何かが絵であることは分かっているし、けいしんしよくを忘れて絵にぼつとうすることがあるのも分かっていた。だがやつれるほどのことは初めてで、今回は度合いも期間も、少し度をしていた。

 仕事のいそがしさもあって、会話もきちんとできておらず、しようさいは分からなかった。

 心配は伝えたが、それ以上はみ込めず、けいも「だいじよう」としか言わなかった。

 だが予想できることはあった。けいがこのようになったのは夏休みに入ってからのこと。そして、ちょうどそのころに、何があったのか。


 けいの、


 そのころからだ。けいぼつとうが始まったのは。

 関連は明らかだった。けいが幼いころから、いやなことやショックなことを、絵にくことでこくふくしようとするけいこうがあることをめぐみは知っていた。なので、やつれるほどのじようきようを心配もしていたが、心理的に必要なことかもしれず、強く止めるようなこともはばかられ、あまりれることができなかった。

 この出来事に際して、めぐみができることはやったつもりでいた。

 行かなくていい、と言っていたけいをお別れの会に連れて行き、きちんとお別れもさせた。

 だが、きちんと話はしなかった気がする。そこまでショックを受けているけいの内心に、安易にみ込むべきか迷ったからだ。けいのことを信用してもいた。しかし、ずっと認めることができなかったが、それ以上にめぐみの方にも、話をするのをけた理由があった。

 、と思ってしまったのだ。

 最初に知らせを聞いた時、と、そんなことを思ってしまったのだ。

 子供が一人死んだのに。悲しむおやさんもいるのに。

 けいの一番のお友達なのに。こんなにもけいが傷ついているのに、つい思ってしまった。

 それが心の底で負い目になって、色々と理由をつけて、けいときちんと話をすることを、思わずけてしまっていた。そんなことを思ってしまった自分がショックでもあり、そして、もしも話をした時に、うっかりけいの前でそんなことを口にしてしまったらと考えてしまって、話し合うのがこわかった。

 自然に解決するのを待っていた。

 そうなればいいと思っていた。だが、そのうち終わるだろうと思っていた、おもめたようなけいの絵への熱中は、まだ続いている。

 さすがに、そろそろ向き合わなければいけないと思った。

 けいと話をしよう。友達の死について。それから伝えよう。けいのことを本当に心配しているのだと、改めて。

 そうしよう。めぐみは決めた。

 明日、話をしよう。けいのうを聞き取ろう。時間の許す限り。

 少しこわい。でもやる。そして、これだけは伝えるのだ。めぐみが――――けいのことを、どれだけ心配しているのか。どれだけ大切に思っているのか。どれだけ愛しているか。どれだけ幸せを願っているか。


「……」


 ちゃんと伝えよう。愛する我が子へ。

 めぐみは、そう心に決めた。そして今日一日の後始末をし、ねむりについた。

 明日に、思いをめぐらせて。

 めぐみは、ねむりに落ちてゆく。


 だが――――こんなふうに、なやましい時、苦しい時、何かを決断する時は、いつもそっとふすまを開けて、我が子のがおかくにんするめぐみ。それを、


 そのことに気づかないまま、何も疑問に思わないまま、めぐみけいの部屋と、ふすま一枚隔へだてた部屋で、ねむりに落ちていた。

 となりがどうなっているのか知らないまま、朝になって目を覚ました時にやって来るはずの、我が子との明日に思いをせながら――――めぐみたたみいたとんの中で、ろうに負けて、静かにおだやかに、ねむりに落ちていった。


 …………………………

刊行シリーズ

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断章のグリム 完全版2 人魚姫の書影
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