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「ただいまー……」
すっかり日付が変わってしまった深夜。と言っても、こんな時間に帰宅するのも珍しくはない時間に、二森恵は帰宅した。
小さな声で、一応、帰宅の声かけをする。そして明かりもなく、静まり返っている家の中を確認して、きっと眠っているのだろう啓を起こさないよう、あまり音を立てないように気をつけて、玄関のドアを閉めた。
電気を点ける。入ってすぐの、広くはないキッチンとダイニングが明るくなり、片付けの行き届いていないあれこれが露わになる。この瞬間、いつも申し訳ない気分になるが、それでもまとまった時間が取れる見込みは、残念ながら今のところない。
キッチンに目をやる、すでに洗って、水切りに入れて、布巾がかけてある食器。
啓が自主的にやってくれたものだ。ありがとう。ごめんね。
啓を守るために離婚をして、その決断は間違っていたとは思っていないが、そのせいで啓に不自由を強いているのは間違いなくて。自立して生活したいという願いは自分のわがままなのではないかと、もっといいやり方があったのではないかと、本当にこれでよかったのだろうかと、自問しない日はなかった。
恵は思う。啓に、幸せであってほしい。
それだけが願いだった。ただ本当にそれができているのか、自信はない。
時々、ひどく不安になる。当の啓が飄々としているので、それに救われているが、それに甘えていていいはずがない。恵は、仕事に着ていったキッチリとしたシャツのボタンを外しかけた手を止めて、自分が寝る部屋とダイニングを隔てている、戸の方を眺めた。
「…………」
この部屋のさらに向こうにある、襖の向こうの、啓の部屋を思いながら。
そして、そこで眠っているはずの啓のことを思いながら。恵は複雑な表情で一人、冷蔵庫が立てるモーター音がひどく大きく聞こえるばかりの、深夜のアパートの静けさの中に立ち尽くした。
今、仕事が忙しい。それは紛れもない事実だ。
繁忙期に入って余裕がなかった。今だけではない、先のことを考えると、いくらかの補助があってなお、家計を維持する収入を得るのは大変だった。
しかし、そんな時だが、啓について、今まさに気がかりがあった。
啓がここのところずっと、やつれて見えるほど、何かに没頭しているのだ。
いや、その何かが絵であることは分かっているし、啓が寝食を忘れて絵に没頭することがあるのも分かっていた。だがやつれるほどのことは初めてで、今回は度合いも期間も、少し度を越していた。
仕事の忙しさもあって、会話もきちんとできておらず、詳細は分からなかった。
心配は伝えたが、それ以上は踏み込めず、啓も「大丈夫」としか言わなかった。
だが予想できることはあった。啓がこのようになったのは夏休みに入ってからのこと。そして、ちょうどその頃に、何があったのか。
啓の、お友達の死。
その頃からだ。啓の没頭が始まったのは。
関連は明らかだった。啓が幼い頃から、嫌なことやショックなことを、絵に描くことで克服しようとする傾向があることを恵は知っていた。なので、やつれるほどの状況を心配もしていたが、心理的に必要なことかもしれず、強く止めるようなこともはばかられ、あまり触れることができなかった。
この出来事に際して、恵ができることはやったつもりでいた。
行かなくていい、と言っていた啓をお別れの会に連れて行き、きちんとお別れもさせた。
だが、きちんと話はしなかった気がする。そこまでショックを受けている啓の内心に、安易に踏み込むべきか迷ったからだ。啓のことを信用してもいた。しかし、ずっと認めることができなかったが、それ以上に恵の方にも、話をするのを避けた理由があった。
よかった、と思ってしまったのだ。
最初に知らせを聞いた時、死んだのが啓でなくてよかったと、そんなことを思ってしまったのだ。
子供が一人死んだのに。悲しむ親御さんもいるのに。
啓の一番のお友達なのに。こんなにも啓が傷ついているのに、つい思ってしまった。
それが心の底で負い目になって、色々と理由をつけて、啓ときちんと話をすることを、思わず避けてしまっていた。そんなことを思ってしまった自分がショックでもあり、そして、もしも話をした時に、うっかり啓の前でそんなことを口にしてしまったらと考えてしまって、話し合うのが怖かった。
自然に解決するのを待っていた。
そうなればいいと思っていた。だが、そのうち終わるだろうと思っていた、思い詰めたような啓の絵への熱中は、まだ続いている。
さすがに、そろそろ向き合わなければいけないと思った。
啓と話をしよう。友達の死について。それから伝えよう。啓のことを本当に心配しているのだと、改めて。
そうしよう。恵は決めた。
明日、話をしよう。啓の苦悩を聞き取ろう。時間の許す限り。
少し怖い。でもやる。そして、これだけは伝えるのだ。恵が――――啓のことを、どれだけ心配しているのか。どれだけ大切に思っているのか。どれだけ愛しているか。どれだけ幸せを願っているか。
「……」
ちゃんと伝えよう。愛する我が子へ。
恵は、そう心に決めた。そして今日一日の後始末をし、眠りについた。
明日に、思いを巡らせて。
恵は、眠りに落ちてゆく。
だが――――こんなふうに、悩ましい時、苦しい時、何かを決断する時は、いつもそっと襖を開けて、我が子の寝顔を確認する恵。それを、金曜日はなぜか必ず忘れる。
そのことに気づかないまま、何も疑問に思わないまま、恵は啓の部屋と、襖一枚隔てた部屋で、眠りに落ちていた。
隣がどうなっているのか知らないまま、朝になって目を覚ました時にやって来るはずの、我が子との明日に思いを馳せながら――――恵は畳に敷いた布団の中で、疲労に負けて、静かに穏やかに、眠りに落ちていった。
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