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今まで砂のようなノイズに満たされながら、しかし同時に異様な静謐さも宿していた校舎の中は、いま均衡という名の冷たいガラスが壊れて、その向こうに閉じ込められていた狂乱があふれ出したかのように、あらゆる存在感が荒れ狂っていた。
ノイズがひどい。放送が、どこかに繋がっていた。
今までの、どことも知れない虚空に繋がっていたかのような、砂を流すようなノイズではない。スピーカーが、明らかに意思のある何かと接続していて、しかしそれは一言も発することなく、ただその意思の存在を学校中に拡げながら、息づくような沈黙を、断続的にガリガリという激しいノイズで乱していた。
――――ザーッ――――ガッ……ガリッ…………ガリガリガリッ……!
鼓膜に穴を開けようとするかのような、火花にも似たノイズ。
耳と脳を削り取ろうとするかのような、その強いノイズの中にいると平衡感覚もおかしくなり、目眩にさえ襲われる。
奇妙に暗いながらも灯っていた電灯が、あちこちで消え、あるいは明滅していた。
廊下の先に続く、薄暗がりと、暗闇と、明滅のモザイク。そして、そんな毒のようなノイズと光のモザイクの中で、今までずっと校内で静かにしていた全ての異形が、土から這い出した蟲のように我が物顔でうごめいていた。
教室の中央で粘土のように形を変え続ける黒いもや。
延々とヒール靴の足音がする教室。
人の形の膨らみを作ったまま、ずるずると移動する白いシーツ。
煌々と明るい教室の中で、無数の机と椅子が何の音も立てずに、寸断してつないだフィルムを上映しているかのように、一瞬のうちに何度も、パズルのように組み代わり続けている異常な光景――――
『いる』
てん、てん、と。
白い〝張り紙〟が、異様な存在感をもって点在する、異形がうごめく明滅する廊下を、啓はひとり歩いていた。
激しいノイズと周りの異様な気配によって、平衡感覚が侵されて、真っ直ぐ歩くことさえ異常に消耗する廊下。得体の知れない巨大な気配が満ちる中を、ちっぽけな啓が、たったひとりだけで、嫌な汗を浮かべながら、しかし決然と、歩き続ける。
断続的なノイズの向こうから、遠い教室でかき鳴らされる、頭がおかしくなりそうな滅茶苦茶なピアノの音が聞こえる。
非常ベルの前を通るたび、赤いランプの光を反射するガラス窓の向こうから、貌のない紫色の女が、じっ、とこちらを見ている。
「………………っ」
啓は歩く。キャンバスに描いた、完成を待つ景色と異形を巡って。
たどり着くたびに立ち止まり、イーゼルを立てて、仕上げの筆を描き加えてゆく。キャンバスに鼻がつきそうなほど顔を近づけて、虫眼鏡を使わないと普通の人間は詳細を把握できないほどの微細な描き込みを、呪詛のように重ねてゆく。
大きな異形のコラージュの隙間を埋めるようにして描き込んだ、まだ担当する『かかり』がいない『無名不思議』。それを孕んでいる教室の前に立ち、ガラス越しに中身を凝視して、仕上げの一筆を書き込むと、教室に灯っていた強い明かりが蝋燭を吹き消したように、昔話で化け物の家の明かりが突然消えるように、ふっと消えて暗くなった。
絵の隙間を埋める材料として、まだ卵の中にいる怪物の命を吹き消して、啓は進む。
その行為こそ、まさに怪物だった。怪物を描く怪物として、啓は黙々と、正気を失いそうな学校の中を、ひとり進み続けた。
かつては菊という助手のいた道行きを、ひとりで。
助手がいてなお、至難だった作業を、たったひとりだけで。
そして、進むごとに、絵が終わりに近づくごとに、啓は疲弊していた。
描くごとに、進むごとに、命と心が削れていた。まるで自分の命を油にして化け物を溶き、絵筆に乗せて、キャンバスに封じ込めてでもしているかのように。
心身を化け物と絵に削り取られながら、しかしそれでも、進み続ける啓。
明らかに疲弊しながら、しかし目の力だけは強いまま、幽鬼のように歩み続ける啓。
「…………………………」
助手もおらず。無防備なまま。
自分の命を削って。しかし今の啓に、恐怖はなかった。
啓は、初め恐怖を耐えて、次に使命感で、それから菊への償いで、校舎へと最後の絵画行のため踏み込んだ。しかし、今は違っていた。今の啓を動かしているのは、それらのどれでもない、ただ無心の集中だった。
純粋に絵を描くという行為。ただそれだけ。
始めてしまったその瞬間、啓は〝絵描き〟になった。ただ目の前のものを描いてキャンバスに写しとり、絵を完成させることだけを目指す、それだけの存在に。それは、絵を描き始めると寝食を忘れる普段の啓そのもの。こんな異常事態の中にあっても、啓は啓であるという事実以外の何物でもなかった。
集中した啓は、目の前の絵のこと以外、全てを忘れた。
警戒することも、身を守ることもせず、啓はひとり校舎の中を巡り、『無名不思議』の絵を仕上げていった。
目標が目前だった。近づいていった。
だが同時に、啓は代償も払っていた。描いた『無名不思議』の全てが、啓と一体になってゆくのだ。
描き上げるたびに、『記録』の作成者である啓が、その『無名不思議』の一部となる。
記録者とは登場人物だ。描き上げた『無名不思議』は、啓を喰らう存在として、後をついて来るのだ。