ほうかごがかり 3

十話 ⑩

 けいの後ろに、黒く形のない気配が、ヒールの足音が、シーツを引きずる音がするのだ。


 そして周囲が変質してゆく。けいが歩いている学校のろう。そのかべの一部がじよういつして複雑に組み合わさった机とに変わり、てんじようから樹木のようにからった白いうでが生えてかべい、窓のすぐ向こうに後ろ向きの子供が並んで立ち、窓のすきてんじようかべがだらだらと血を流して、ろういんさんえた。

 とうかんかくに異常な数の非常ベルが並び、それを反射する窓に、異常な数のむらさきいろをした顔のない女が映って、のぞく。かべぞいに赤く血をしたたらせるふくろがって並び、階段は段数がたらに変わり、どこかから聞こえるピアノの音とスピーカーのノイズと、それから電車の走る音が入り混じって、教室があるはずの窓の向こうを電車がはしけてゆく。

 めいめつする窓からの光がろうを照らし、ゆかだんの花が、あるいは血だまりがおおう。ゆかけるように一体化した人体がへばりつき、その顔と、目が合う。

 それらをくつの裏でめて、眩暈めまいを起こしそうなこんとんの通路を歩く、けい

 学校が変質してゆく。化物が、かいが、そのどれとも呼べないかいな変化が、学校のろうしんしよくしてゆく。

 現実感が失われてゆく。だが、たぶんだが、変質しているのは、学校ではなかった。

 変質しているのは、しんしよくされているのは、〝自分〟だ。自分の知覚だ。自分の頭の中に、存在の中にインストールされた、『記録』された『無名不思議』たちが、重なるようにして、この光景を見せているのだ。

 だが、その正気を失いそうな光景も、今のけいにとっては絵の題材にすぎない。

 心の奥底にきようはあったが、それ以上に、あるいはだからこそ、目を見開いて、その中を歩き続けるのだ。

 かつて聞いた『ろうさん』の説では、これらは〝神〟だという。

 昔は神様と呼ばれた、人をらうちようじよう存在。境界から無限に生まれて人里をおそい、いけにえとして許容された子供をらって、しかしその九割九部は育ち切ることなく、また境界へと消えてゆくやくびようがみ

 それらがわさって織りなす、まんめいた、めくるめくごくの中を、歩くけい

 このおぞましいパッチワークは、けいつづったも同然だ。このろうの光景は、けいがキャンバスの中にきつつある絵の、ネガのようなものだった。


「…………よし」


 そんな中で、やがてけいは、校舎の中にある最後のモデルをき終え、すばやく道具をまとめててつしゆうした。

 無数の異常にいくにもおおわれたろうを、無数の異常を引き連れて、ノイズの混じったちんもくがスピーカーしに見つめる中、キャンバスとイーゼルを手に黙もくと歩いて、げんかんからグラウンドに出た。


 


 と押しつぶさんばかりに黒く重い空の下で、街灯がめいめつしていた。

 じわじわと植え込みの木々がざわめいていた。生き物のように。かくするように。あるいはその枝と葉の中で、何かをしやくしているかのように。

 夜のやみが息づいていた。ただ、〝墓場〟だけが静かだった。

 けいはその中を、ろうのせいで重くなった、しかしみようにしっかりとした足取りで正門へと向かう。そして門の前で、校舎に向けてイーゼルを立てると、キャンバスをえつけて、それから改めて静かに校舎を見やった。


「……なあ、もうすぐ終わるぞ」


 キャンバスのかげからのぞきこむようにして、けい


「僕を、殺してみせろよ。みんなみたいに」


 低く、つぶやくように、言った。そうして、しばしいどむように校舎を見つめ、何の反応もない様子にぎしりとおくむと、絵筆をにぎり直した。

 最後に、学校を。

 最後に残したコラージュの一片ぺん、夜にそびつ小学校の外観を、仕上げる。

 それで終わりだ。どこかあせるような感覚と共に、けいは絵をき進める。やがて少しの時間がち、けいの筆が止まった時――――キャンバスの全面は、切り刻んだ写真をばらまいたかのようなまんきようめいたコラージュとして配置された、すさまじいまでのちよう細密画によって、完全におおくされていた。



「…………」



 完成した。

 ひどく静かだった。

 せいじやくけいの動向を見守っているかのように、世界が、しん、とちんもくしていた。

 けいはその中で、無言のまま、筆とパレットを持った手を下ろした。キャンバスの前で、モデルである小学校を見上げ、そして自分がき上げたばかりの絵へと再び目を下ろし、完成したそれを、じっ、と見つめた。

 そして――――


 ぶわ、


 とその顔に、あせした。

 全身にあせした。気づいてしまったのだ。顔が引きつった。


「………………


 がくぜんとつぶやいた。足りない。足りないのだ。

 完成したはずなのに、足りない。なんでだ!? 頭の中でさけぶ。終わりのはずだった。この絵にこれ以上描くべきところは、もうどこにもなかった。なのに足りない。完成しているはずの画面の全てに、何かが少しだけ、足りていないのだ。

 だがこれ以上ひとつでも筆を入れ、色を乗せれば、絶対にそくになった。

 けいは分かっていた。色がにごるのだ。色は、ひつは、重ねれば重なるほどにごるのだ。

 だがそれでも、これらの〝存在〟を、〝情報〟を刻み込むために、けいはここから一筆でも乗せればという限界までき込んだ。『それ』が『それ』である限界すれすれまで線と色をき込んで、絵としてはこれで、ちがいなく完成だった。


「…………!!」


 だがそれなのに、

 あせった。これでは『ほうかご』を完全にいたことにはならない。ただそれだけが分かっていた。きっと、だから、けいは静観されていたのだ。

 だからけいは殺されていない。正気を保っている。

 ただ、足りないから。だが何が足りないのか分からなかった。けいが見えていない、何かがあるとしか思えなかった。


 何が――――


 激しいしようそうと共に、ちんもくする校舎を見上げた。

 うっすらと見える時計。四時半をとっくに過ぎていた。

 時間がない。ここまでくのに時間をかけすぎていた。今のけいには『きつねの窓』がなかったからだ。

 きっと時間をかければ、今までそうできたように、その足りていない〝何か〟をいだすこともできるだろう。だが今日という日には、間に合わなかった。このままでは四時四四分四四秒のチャイムと共に、けいは『ほうかご』からもどされる。そして今日この身に背負い、今まさにけいの身の内に巣食い、あるいは背後を囲んでいる、もはや七つどころではすまないおそろしい数の『無名不思議』によって。そうぜつ、次の『ほうかご』を待たずに生命か正気をうしなうにちがいないのだった。

 そうなる予感があった。それではだった。

 けいは、『ほうかご』で死ななければならないのだ。

 そうでなければ、

 せいのようになるかもしれない。けいは自分の母親に、そうしきの会場で見た、ずっとなみだを流していたせいのお母さんのようになってほしくはなかった。

 けいは、消えなければならないのだ。

 だから、現実で死ぬわけにはいかない。

 そうならないためには――――今は、絵を〝完成〟させるしかない。

 無数の『これら』を連れ帰るわけにはいかない。けいは必死で校舎を観察する。校舎のかべを、窓を、屋上を、すみずみまで見回す。何か、手がかりを探して。

 しかし、何も見てとることはできなかった。

 あせった。そんなけいの背後から、が気配もなく近づいて、のぞきこむように顔を寄せて、耳元でささやいた。


 ――――しね。

刊行シリーズ

断章のグリム 完全版3 赤ずきんの書影
断章のグリム 完全版2 人魚姫の書影
断章のグリム 完全版1 灰かぶり/ヘンゼルとグレーテルの書影
ほうかごがかり4 あかね小学校の書影
ほうかごがかり3の書影
ほうかごがかり2の書影
ほうかごがかりの書影