啓の後ろに、黒く形のない気配が、ヒールの足音が、シーツを引きずる音がするのだ。
そして周囲が変質してゆく。啓が歩いている学校の廊下。その壁の一部が常軌を逸して複雑に組み合わさった机と椅子に変わり、天井から樹木のように絡み合った白い腕が生えて壁を這い、窓のすぐ向こうに後ろ向きの子供が並んで立ち、窓の隙間や天井や壁がだらだらと血を流して、廊下を陰惨に塗り替えた。
等間隔に異常な数の非常ベルが並び、それを反射する窓に、異常な数の紫色をした顔のない女が映って、覗く。壁ぞいに赤く血を滴らせる袋が吊り下がって並び、階段は段数が出鱈目に変わり、どこかから聞こえるピアノの音とスピーカーのノイズと、それから電車の走る音が入り混じって、教室があるはずの窓の向こうを電車が走り抜けてゆく。
明滅する窓からの光が廊下を照らし、床を花壇の花が、あるいは血だまりが覆う。床に溶けるように一体化した人体がへばりつき、その顔と、目が合う。
それらを靴の裏で踏み締めて、眩暈を起こしそうな混沌の通路を歩く、啓。
学校が変質してゆく。化物が、怪異が、そのどれとも呼べない奇怪な変化が、学校の廊下を侵食してゆく。
現実感が失われてゆく。だが、たぶんだが、変質しているのは、学校ではなかった。
変質しているのは、侵食されているのは、〝自分〟だ。自分の知覚だ。自分の頭の中に、存在の中にインストールされた、『記録』された『無名不思議』たちが、重なるようにして、この光景を見せているのだ。
だが、その正気を失いそうな光景も、今の啓にとっては絵の題材にすぎない。
心の奥底に恐怖はあったが、それ以上に、あるいはだからこそ、目を見開いて、その中を歩き続けるのだ。
かつて聞いた『太郎さん』の説では、これらは〝神〟だという。
昔は神様と呼ばれた、人を喰らう超常存在。境界から無限に生まれて人里を襲い、生贄として許容された子供を喰らって、しかしその九割九部は育ち切ることなく、また境界へと消えてゆく疫病神。
それらが継ぎ合わさって織りなす、曼荼羅めいた、めくるめく地獄の中を、歩く啓。
このおぞましいパッチワークは、啓が綴ったも同然だ。この廊下の光景は、啓がキャンバスの中に描きつつある絵の、ネガのようなものだった。
「…………よし」
そんな中で、やがて啓は、校舎の中にある最後のモデルを描き終え、すばやく道具をまとめて撤収した。
無数の異常に幾重にも覆われた廊下を、無数の異常を引き連れて、ノイズの混じった沈黙がスピーカー越しに見つめる中、キャンバスとイーゼルを手に黙々と歩いて、玄関からグラウンドに出た。
ぞ、
と押しつぶさんばかりに黒く重い空の下で、街灯が明滅していた。
じわじわと植え込みの木々がざわめいていた。生き物のように。威嚇するように。あるいはその枝と葉の中で、何かを咀嚼しているかのように。
夜の闇が息づいていた。ただ、〝墓場〟だけが静かだった。
啓はその中を、疲労のせいで重くなった、しかし奇妙にしっかりとした足取りで正門へと向かう。そして門の前で、校舎に向けてイーゼルを立てると、キャンバスを据えつけて、それから改めて静かに校舎を見やった。
「……なあ、もうすぐ終わるぞ」
キャンバスの陰から覗きこむようにして、啓。
「僕を、殺してみせろよ。みんなみたいに」
低く、つぶやくように、言った。そうして、しばし挑むように校舎を見つめ、何の反応もない様子にぎしりと奥歯を噛むと、絵筆を握り直した。
最後に、学校を。
最後に残したコラージュの一片、夜に聳え立つ小学校の外観を、仕上げる。
それで終わりだ。どこか焦るような感覚と共に、啓は絵を描き進める。やがて少しの時間が経ち、啓の筆が止まった時――――キャンバスの全面は、切り刻んだ写真をばらまいたかのような万華鏡めいたコラージュとして配置された、凄まじいまでの超細密画によって、完全に覆い尽くされていた。
「…………」
完成した。
ひどく静かだった。
静寂。啓の動向を見守っているかのように、世界が、しん、と沈黙していた。
啓はその中で、無言のまま、筆とパレットを持った手を下ろした。キャンバスの前で、モデルである小学校を見上げ、そして自分が描き上げたばかりの絵へと再び目を下ろし、完成したそれを、じっ、と見つめた。
そして――――
ぶわ、
とその顔に、汗が吹き出した。
全身に汗が吹き出した。気づいてしまったのだ。顔が引きつった。
「………………足りない」
愕然とつぶやいた。足りない。足りないのだ。
完成したはずなのに、足りない。なんでだ!? 頭の中で叫ぶ。終わりのはずだった。この絵にこれ以上描くべきところは、もうどこにもなかった。なのに足りない。完成しているはずの画面の全てに、何かが少しだけ、足りていないのだ。
だがこれ以上ひとつでも筆を入れ、色を乗せれば、絶対に蛇足になった。
啓は分かっていた。色が濁るのだ。色は、筆致は、重ねれば重なるほど濁るのだ。
だがそれでも、これらの〝存在〟を、〝情報〟を刻み込むために、啓はここから一筆でも乗せれば違ってしまうという限界まで描き込んだ。『それ』が『それ』である限界すれすれまで線と色を描き込んで、絵としてはこれで、間違いなく完成だった。
「…………!!」
だがそれなのに、足りない。
焦った。これでは『ほうかご』を完全に描いたことにはならない。ただそれだけが分かっていた。きっと、だから、啓は静観されていたのだ。
だから啓は殺されていない。正気を保っている。
ただ、足りないから。だが何が足りないのか分からなかった。啓が見えていない、何かがあるとしか思えなかった。
何が――――
激しい焦燥と共に、沈黙する校舎を見上げた。
うっすらと見える時計。四時半をとっくに過ぎていた。
時間がない。ここまで描くのに時間をかけすぎていた。今の啓には『狐の窓』がなかったからだ。
きっと時間をかければ、今までそうできたように、その足りていない〝何か〟を見出すこともできるだろう。だが今日という日には、間に合わなかった。このままでは四時四四分四四秒のチャイムと共に、啓は『ほうかご』から戻される。そして今日この身に背負い、今まさに啓の身の内に巣食い、あるいは背後を囲んでいる、もはや七つどころではすまない恐ろしい数の『無名不思議』によって。壮絶に日常を食い荒らされて、次の『ほうかご』を待たずに生命か正気を喪うに違いないのだった。
そうなる予感があった。それでは駄目だった。
啓は、『ほうかご』で死ななければならないのだ。
そうでなければ、啓の存在が消えてなくなる保証がない。
惺のようになるかもしれない。啓は自分の母親に、葬式の会場で見た、ずっと涙を流していた惺のお母さんのようになってほしくはなかった。
啓は、消えなければならないのだ。
だから、現実で死ぬわけにはいかない。
そうならないためには――――今は、絵を〝完成〟させるしかない。
無数の『これら』を連れ帰るわけにはいかない。啓は必死で校舎を観察する。校舎の壁を、窓を、屋上を、隅々まで見回す。何か、手がかりを探して。
しかし、何も見てとることはできなかった。
焦った。そんな啓の背後から、真っ赤な人影が気配もなく近づいて、覗きこむように顔を寄せて、耳元でささやいた。
――――しね。