ささやく、『まっかっかさん』の声。血の臭いがした。切り裂かれた喉から流れ出している血の臭いが、ささやき声と共に、耳元でただよった。
腰のあたりに重みを感じた。
腰の後ろの、ベルトの内側。そこに吊るすようにして挟んだパレットナイフに、なぜだか奇妙に意識が向いて、その研がれた鉄の刃に重みが増すような存在感を感じた。
手にとれ、
と言わんばかりに。
そして、その切っ先で自分の喉を突け、と言わんばかりに。
「…………っ!」
それを必死に、振り払うように無視して、必死に校舎を凝視した。
焦り、その間にも時間が過ぎたが、どれだけ探しても、何も見つけることができなかった。
校舎はただ、巨大な影のように、立つだけ。
啓は歯噛みした。強く、強く思った。
『狐の窓』があれば……!
あの子が、菊が、ここにいれば。
見つけることができたかもしれない。すぐに。そもそもそれ以前に、まず絵の完成までに、これほどの時間はかからなかったはずなのだ。
今まで菊の存在が、どれだけ有り難かったかを思い知った。できるだけ考えないようにしていた事実だった。あそこまで啓のために身を張って、さらには命まで失ってしまった菊に、まだ頼ろうとするなんて、あまりにも恥知らずに思えて考えないようにしていた事実が、いま強く身に染みた。
菊がいたから、ここまで来れたのだ。
その菊を失った。このままでは、絵を完成させることはできないだろう。
近づく四時四四分四四秒。このまま目を覚ますわけにはいかない。だとしたら。
「……!」
浮かんだ。最後の選択肢が。啓が『ほうかご』で死ぬための、最後の選択肢――――『まっかっかさん』が啓にささやき続けているパレットナイフの選択肢が、にわかに生々しい現実味を帯びた。
――――わたし、役に立ってる?
不意に菊の言葉が、脳裏に浮かんだ。
啓と二人でいる時に、口癖のように確認していた菊。啓が肯定すると、嬉しそうに、はにかむように、控えめに笑っていた。
「……ああ。役に立ってたよ。すごく」
啓は記憶の中の菊に向けて、小さな声で言う。
菊がいなくなった途端、このざまだ。啓は、諦めて覚悟を決めた。
がしゃ、と音を立てて、啓は、絵筆とパレットを地面に落とした。
パレットナイフを握るためだった。ここで死ぬためだった。
背中に『まっかっかさん』の笑い顔を感じた。目を向けず、口惜しく校舎を見上げた。
あんなに頑張ってくれたのに、駄目だった、ごめん。啓は口の中で謝ると、せめて最後の別れにと、倒れた菊を置いたままの屋上に向けて――――――二人で絵の構図をとる時にいつもやっていた、人差し指と中指を合わせて伸ばす、啓独特の三本指で作る窓を、手向けるようにして作った。
その瞬間だった。
啓の作った窓に、視界の外から二本の手が被せられた。
「!?」
いきなり音もなく、頭の後ろから、背中から抱くように二本の白い腕が伸びてきて、四角形を組んだ啓の手に指をからめたのだ。そして息を吞み、瞠目した啓の目の前で、その絆創膏を貼った指は『狐の窓』を作って――――――
がらァ――――――――ン、
がらぁ――――――――――――んっ!!
瞬間、神社の鈴の音が、耳と頭が割れそうな大音声で世界に響きわたった。
それは啓の目の前で作られた、『狐の窓』の向こうに何かの景色が見えた瞬間、そこから学校のチャイムのように大音量であふれ出し――――――そしてそのままガラスを割るように今まで見えていた世界を破壊して、周囲の景色を一瞬にして、小さな『狐の窓』の向こうに見えた景色と同じものに変えてしまった。
「え……」
見えたのは、そして現れて広がったのは、あまりにも巨大な『黄昏の森』だった。
世界が真っ赤になった。目玉と脳が溶けそうな赤い赤い夕焼けが空を一面に塗りつぶし、そしてその下に真っ黒な森が生い茂り、黒くて暗くて深い巨大で広大な山の稜線が彼方に延びて拡がっていた。
地面は白く、一本の白い道が、黒い森を割って、彼方へと延びていた。
そしてそこには一本の鳥居。大きな鳥居が、赤く赤く夕焼けよりも赤く道の真ん中に立っていて、そしてその鳥居には、黒くシルエットになった一人の子供の死体が、ぶらりと太い紐で吊るされていた。
そして、紐でくくられた子供の死体の首には、大きな大きな丸い鈴。
神社の正面に吊るされている、あの大きな丸い鈴が、ふたつ首にくくりつけられて、子供の死体が揺れていた。