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カァ――――――――ン、
コ――――――――――――ン!
十二時十二分十二秒。音割れした学校のチャイムが部屋の中に鳴り響いて、毎週金曜日の深夜に、由加志の部屋は様相を変える。
激しいノイズ混じりの、『かかり』を呼び出す校内放送。頭が痛くなるようなそれが終わると、部屋の空気が変わっていて、部屋から由加志を引きずり出そうとする、世界に一人の味方もいない時間が始まる。
まずは決まってドアのノブが回され、ガチャガチャと音を立てる。鍵は閉めていても勝手に開く。そしてドアが開かれようとするが、がつんと音を立てて、ぶつかって止まる。
由加志の部屋のドアは、本をいっぱいに詰め込んだ本棚で、背の高いものと低いものとで二重にふさいであって、さらに本棚を動かせるスペースが他の家具で埋めてある。なので開けようとしてもすぐに本棚にぶつかるだけで、それ以上、ドアが開くことはない。
普段、足の踏み場もない由加志の部屋は、すっかり模様替えされている。見ちがえる、というより殺風景。足の踏み場もないほど床に置かれていた大量の本は、全て本棚にぎっしりと収められ、地震対策用のチェーンに背表紙を押さえられて、ドアを開かないようにする重石として働いていた。
なのでドアは開かない。すると次に開けられようとするのは、表の掃き出し窓だ。
鍵は最初から外れている。だが開くことはない。ガタガタと小さな音を立てるのみ。窓は開かないように固定用の部品がねじ止めしてあって、さらに開くために必要な隙間には廃材の板をはめ込み、さらにその上から窓側一面を裏返した棚で埋めて、ただの壁同然に改造してあるのだ。
そして部屋に戸棚はない。〝開く〟ものが部屋から排除してあるのだ。
勉強机の引き出しも抜いてあり、カーテンのようなものもなく、ある程度以上の大きさをした箱のようなものも置いていない。
この日に限っては、布団も部屋から出している。ポスターやタペストリー、額縁といった〝めくる〟ことができるものも、部屋から追い出していた。
鏡もない。テレビも、ガラスなどの映りそうなものもだ。
通路や窓と見なされそうなものは、全て、念のため置いていない。
徹底して、『ほうかご』と繋がって、部屋から連れ出されるかもしれないものを排除しているのだ。この日に限っては、由加志の命と言ってもいいノートパソコンさえ、開くし映るものなので、部屋の外に出していた。
そんなテーブルさえない、荒涼とした部屋の真ん中に、由加志は一人で座っている。
するとやがて、
どんどんどんどんどん!!
と部屋のドアが叩かれ始める。
窓もだ。ドアや窓が割れそうなほど強く叩かれ、外れそうなほどガタガタと激しく揺らされる。暴力的な恐ろしさで、身がすくむような打撃音と振動で部屋がいっぱいになり、部屋の中にあるものが揺れて、半ば地震のようになる。
これが一晩中続く。もし毎日なら、ノイローゼになることは間違いない。
そして、こんな家中に響き渡りそうなすさまじい音と振動だが、不思議なことに、家族が起きてくることはないのだった。
ただ、家族から声をかけられることはある。
対策を始めてほどなくの頃、急にドアを叩く音が止まって不思議に思っていると、母親がドアの外から、「何があったの」「すぐ開けなさい」と中にいる由加志に向けて声をかけてきたのだ。
結論から言うと母親ではなかった。ドアを開けた瞬間、由加志は伸びてきた冷たい手に腕をつかまれて『ほうかご』に引き込まれた。翌日、母親に「夜中に声をかけた?」と訊ねると「なんのこと?」という返事が返ってきた。あたりまえだがそれ以来、この時間に聞こえる家族の声は信用していない。
だが、それでも、〝外〟はその試みを続けている。
「ねえ、あけなさい」
ガタガタと揺れるドアの向こうから、母親の声。
すでにタネは割れていると言うのに、変わらずドアを開けるようにと、部屋の中の由加志に声をかけてくる。
「あけなさい」「あけなさい」
と。
そして、
「ねえ、あけなさい」
「あけなさい」「ねえ」「あけなさい」
「あけなさい」「あけなさい」「あけなさい」「あけなさい」
「あけなさい」「あけなさい」「あけなさい」「ねえ」
ドアの外からも、掃き出し窓の外からも、母親の声。その間にも、ドアも窓も、どんどんと激しく叩かれて、ガタガタと激しく揺らされる。
「………………」
そんな部屋の真ん中で、由加志は一人、膝をかかえて座っていた。
部屋の中は頭がおかしくなりそうな騒音と呼び声でいっぱいになっていたが、由加志は耳をふさぐことはせず、ポケットの中の携帯端末で気をまぎらわせることもしなかった。
これに正面から向き合うのは、怖いし、心が削れる。
今はドアも窓も開かず、対策がうまくいっている。だが、だからといって目をそらすわけにはいかないし、油断できるわけでもなかった。もしも不測の事態が起こった時には、すぐに対応しなければならないからだ。
ずっと、由加志はこうしている。
そうすることで今まで、『ほうかごがかり』からのがれてきた。
金曜日が来るたびに、こうして準備し、徹底抗戦し、少しの変化も見逃さないように集中する。そしてこのまま、四時四四分四四秒まで、じっと耐えて過ごすのだ。
どんどんどんどんどん!!
「あけなさい」「あけなさい」
「ねえ」
ここしばらくは、向こうもネタ切れなのか、呼び出しに大きな変化はなかった。
由加志はじっと耐える。今日もまた。
そして、時間が過ぎ、四時四四分四四秒まであと少し。
あと十分ほど。あの頭が痛くなるチャイムが鳴り響いて、おかしくなっている部屋の空気が元に戻るのをじっと待った。
と。
ぴた、
と不意に、部屋を支配していた喧騒が、いきなり止んだ。
完全に。突然の無音。今まで一度としてなかった現象に、由加志はぎょっとして周囲を見回し、腰を浮かせて立ち上がりかけた。
背後に人影があった。
悲鳴をあげて床を転がった。
「うわあ!」
転んで、叫んで、見上げる。何の前触れもなく、音も気配もなく、背中のすぐ後ろに人の足が立っていて、由加志は肝を潰して床の上で目を見開いた。
菊が立っていた。
えっ。と驚いた由加志の目の前で、立っていた菊は消えた。
「は……?」
一瞬、間違いなくそこにいたのに、編集で間違えた画像を繋いでしまったかのように、いたはずの人間の姿が消失した。この部屋に何度も来たことのある菊の、深くうつむいて表情の窺えない顔と、一度も見たことがない〝制服〟姿。それが目と記憶にありありと残っているのに、驚いた刹那の間に目の前から、一瞬で消えてなくなったのだ。
「は?」
空っぽの空間を見つめて、床に座り込んで、固まる由加志。
心臓がばくばく鳴っている。そして呆然としながら視線を下ろすと、そこに由加志は明らかな異常があるのを見つけた。
「ひいっ!」
床に血文字のようなものが広がっていた。
床に敷かれたカーペットの上に、さっきまでは存在していなかった、血で書いた絵文字のようなものが、一抱えほどの範囲に書き込まれていたのだ。
見ると、書いてあるのは〝人間〟だった。
単純な、いわゆる棒人間。たくさんの棒人間が、互いに手を繋いで横並びになって、長方形の中に何本も縦の線を引いて書かれた、檻のようなものを前にしていた。
血で書かれた、一直線に繋がった、たくさんの人間。
そして、それらが前にしている檻のようなものの近くに、血だらけの小さな物体が落ちていて、その真横に一言、やはり血文字で文字が書かれていた。