たすけて
と。
ひゅっ、と息を吞んだ。
鳥肌が立った。寒気がした。今、何か恐ろしいものを見ていた。
自分の部屋に――――あれだけ入ってこられないように苦心した、自分の部屋の中に出現した、明らかな異常現象。
何だ!?
目を見開き、目を離せずに、その場で身動きできなくなる。
床に座り込んだまま、自分の足元の、血の絵文字を見つめる。たくさん書かれた人間の絵文字と、それから〝たすけて〟の四文字。そして見つめているうちに、それらを書いている血が何かおかしいことに気づいて、由加志は探究心が勝ってしまい、おそるおそる身を起こして観察のため近づいた。
それは粘性を超えてカーペットの上に盛り上がって、一部が結晶質に輝いていた。
血に、何かが混ざっているように見えた。
「塩……? 血の混ざった塩……?」
つぶやく由加志。
絵文字を作っている血もは、不均質に塩が混ざっていた。溶け切らないほどの量の塩。そしてそれの観察のために改めて絵文字の全体を見たとき、〝たすけて〟の文字の横に血まみれで落ちている、その何かを初めてきちんと認識した。
それは、
絵具のチューブ。
油絵具のチューブだった。自分が頼まれてネットで注文したものだ。憶えていた。
啓の油絵具だ。それが一目では何か分からなかったくらい血にまみれて、ぽとりと床に落ちている。もちろんこんなものが最初からあったわけがない。あるはずがないもの。それに〝たすけて〟の血文字が添えられて――――――
「!」
由加志の頭の中で、情報が繋がった。
何も知らないなりに、いくつものことを、なかば直感で理解した。
衝撃を受けた。息が止まった。まず直感したのは――――菊が、おそらくもう、生きてはいないことだ。
「…………!!」
菊はきっと死んだ。何かがあったのだ。
そして、亡霊になってここに現れた。助けを求めて、ここに。
そして、たぶん助けてほしい相手は、菊ではない。
もう手遅れの、菊ではない。
――――啓だ。
霊能力を持っていた菊。『無名不思議』を閉じ込めてしまうほどの。そんな菊は、『ほうかご』で死んだ後も、亡霊になってまで、啓を助けてほしいと頼みに来たのだ。
なるほど菊ならば、啓のためにそれくらいのことはしそうだと、由加志は異常事態を疑いもせず受け取った。子供の素直な直感と、オカルトマニアとしての世界観。それに何よりも、この部屋に二人が通って来ていた時の、死んだ後でも啓の後をついていきそうな、まるで忠実な犬のような菊の態度を見ていたからだ。
何が『ほうかご』で起こっているかは、全く分からなかった。
だが、いま啓に危機的なことが起こっている。そして〝たすけて〟と頼みに来るということは、まだ間に合うかもしれない。
でも何を? だからといって、何をすればいいんだ?
ここで『ほうかご』にも行かずにいる由加志に、何ができるっていうんだ? 最初に思ったのは『ほうかご』に行くのはごめんだということ。だいたいもう数分もすれば『ほうかご』は終わってしまう。今から『ほうかご』に加勢に行ったところで、何かするのに間に合うとは思えなかった。
「なんなんだよ、どうしろってんだよ……!」
由加志は頭をかきむしった。
自分にできることが思い浮かばない。なんでおれに助けを求めた? おれにできることなんかあるのか?
ここで? 何を? しかも数分以内に?
たいして話もしなかった菊。そんな菊に言葉の足りないまま丸投げされて、さすがに恨みに思った。だがそれでも自分にできることを探して、何かないかと部屋を見回す。そして半ば無意識に何か役に立つものを持っていないかと手が自分の服を探る。
と、
探った手が、ジーンズのポケットに入った硬い板に触れた。
由加志は、ポケットから、その硬いものを取り出した。携帯電話だ。
いつもそうしているように、『ほうかご』の時間になる前に、電波の回線が〝通路〟になるかもしれないからと電源を切っている携帯。
自分の体温が移った手触りと、何も映していない画面。
由加志は、それを少しのあいだ見つめた。それから次に、床の血文字を見る。
「………………っ!」
そして由加志は、悩みに悩んだ様子で眉を寄せてから。
仕方なく決断して、ボタンを長押しして、携帯の電源を入れた。