啓は空を見上げた。気が遠くなるような、赤い赤い夕焼けの空。
視界いっぱいに広がった、魂を吸われそうな赤に、啓はずっと思い込んで必死にすがろうとしていた希望が、赤い虚ろの中に溶けてゆくのを感じた。
動けない。
帰れない。
心の奥底から、見上げた赤い空に抽出されるように、空っぽの絶望がにじみ出して、空っぽが胸の中を満たした。
ふつっ、と心の中の、何かが切れる。
生きるための何かが。この孤独にも、死を待つだけの時間も、耐えられなくなった。
ここで啓は帰れないまま、もう誰にも会えないまま、何も残せないまま、その孤独と虚無にさいなまれながら飢えて乾いて死ぬ。長く長く苦しんで、長い長い絶望のなか、指先ひとつ動かせなくなって、死ぬ。
「………………あ」
嫌だ。
啓の目から、つーっ、と一筋の、涙が流れた。
そして腰の後ろのベルトに挟んだ、パレットナイフをつかんで、抜き出した。
パレットナイフを両手で握り、高く掲げ、空を見上げた自分の頸に切っ先を向けた。
帰る希望などない。
理解した。それならば。絶望し、苦しんで死ぬのなら。
啓は、いま、ここで。
言葉が出た。
「――――――お母さん」
最後に思ったのは、母親のこと。
彼女の幸せのために、自分は死んで消滅し、もう会うことはないと決めたはずの母親と、会いたいという思いだった。
そしてその首を。
背後から、伸びた手がつかむ。
7
「!?」
突然鳴った、携帯電話。
眠っていた恵は、枕元で鳴ったその電子音に、深い眠りの沼の底から、無理やり覚醒まで引き上げられた。
「……う……ん?」
目に、手足に、意識が行き渡らない感覚のまま、枕元の携帯に手を伸ばし、つかむ。真っ先に思い浮かんだのは職場からの連絡だったが、画面に表示されていたのは知らない携帯の番号で、それから次に確認した現在の時間は、仮に職場からのものであっても非常識としか言えない時間帯だった。
四時四四分。
間違い電話? それとも?
重たい頭で考えるが、鳴り続けるそれに、出ないという選択肢は思いつかず、恵は通話ボタンを押す。
「……もしもし?」
寝起きを精一杯取り繕って、電話の向こうへ問いかける恵。すると、それに対して返ってきたのは、少しも予想していなかった、まだ子供の声だった。
「え……っと、あっ、あの、二森啓君の、お母さんですか?」
男の子の、少しくぐもった声。
その背後で、遠く、カ――――ン、コ――――ン、と学校のチャイムのような音が小さく聞こえていたが、それを疑問に思うよりも前に、恵は強く戸惑った。
「えっ?」
一瞬、何を言われたのか、分からなかったのだ。
啓君? お母さん? 相手の言っていることが、何もかも。しかし、その一瞬の思考停止のあと――――ばつん、と急に厚い膜を破ったように、いきなり頭の中がはっきりとして、恵は思い出したかのように状況を把握した。
「あ、う……うん、そうよ」
恵は慌てて、動揺しながら、そしてそれを隠しながら、答えた。
動揺していた。一瞬、啓のことが分からなかった自分が、怖かったのだ。恵にとってそれは絶対にあってはならないことだった。鳥肌が立った。
「そうだけど……あなた、啓のお友達?」
それでも平静を装いながら、恵はとにかく訊ねる。
子供の前で装うことには、恵は慣れていた。大人としての振る舞いをする。まずはこの相手が啓のお友達であると仮定して、恵はまず注意する。
「あのね、さすがにこんな時間は、ちょっと……」
「うっ、あの……えーと……ごめんなさい」
意外にも素直に謝る、いかにも電話が、あるいは人と話すことそのものが苦手そうな、それでも頑張って話そうとしている様子の男の子。
「でも二森くんのことで話があって…………あの、二森君、家に帰ってます?」
「えっ?」
イタズラかとも思った。だが、頭ごなしに決めつけるわけにもいかない。それに何より、男の子がした質問。それが妙に、頭に引っかかったのだ。
家に帰ってる?
当たり前だ。この子は何を言ってるんだろう?
どういう意味? たとえば、昨日、一緒に遊んだか何かして、何かトラブルがあって、家に帰ってないのではないかと心配になったとか?
こんな時間に?
電話をするほど?
いや、それよりも、どうしてこの子は、私の電話番号を知ってるの?
それ以前に、帰ってないわけがない。そんなことになっていたら、完全に事件だった。警察沙汰だった。
当然、啓は帰っている。
いると知っている。
確認している。
確認……?
一瞬のうちに、恵の頭の中には本当にたくさんの疑問が頭に浮かんだが、そこに思い至った段階で、恵の頭から血の気が引いた。
確認なんかしてない。
昨日、家に帰ってきてから眠りにつくまで、恵は隣の部屋で啓が寝ていると思い込んでいただけで、一度も確認などしていないのだ。
「…………っ!!」
どうして?
恵は、がばっ、と布団から立ち上がって、慌てて襖に駆け寄った。
そして、電話の途中であることを完全に忘れて、がた、と音を立てて襖に手をかけると、建て付けのよくない襖を、大急ぎで開けた。
いなかった。