ほうかごがかり 3

十話 ⑯

 けいは空を見上げた。気が遠くなるような、赤い赤い夕焼けの空。

 視界いっぱいに広がった、たましいを吸われそうな赤に、けいはずっと思い込んで必死にすがろうとしていた希望が、赤いうつろの中にけてゆくのを感じた。

 動けない。

 帰れない。

 心の奥底から、見上げた赤い空にちゆうしゆつされるように、空っぽの絶望がにじみ出して、空っぽが胸の中を満たした。

 ふつっ、と心の中の、何かが切れる。

 生きるための何かが。このどくにも、死を待つだけの時間も、えられなくなった。

 ここでけいは帰れないまま、もうだれにも会えないまま、何も残せないまま、そのどくきよにさいなまれながらえてかわいて死ぬ。長く長く苦しんで、長い長い絶望のなか、指先ひとつ動かせなくなって、死ぬ。


「………………あ」


 いやだ。

 けいの目から、つーっ、と一筋の、なみだが流れた。

 そしてこしの後ろのベルトにはさんだ、パレットナイフをつかんで、した。

 パレットナイフを両手でにぎり、高くかかげ、空を見上げた自分の頸に切っ先を向けた。

 帰る希望などない。

 理解した。それならば。絶望し、苦しんで死ぬのなら。

 けいは、いま、ここで。

 言葉が出た。


「――――――お母さん」


 最後に思ったのは、母親のこと。

 彼女の幸せのために、自分は死んでしようめつし、もう会うことはないと決めたはずの母親と、会いたいという思いだった。


 


 背後から、



「!?」


 とつぜん鳴った、けいたい電話。

 ねむっていためぐみは、まくらもとで鳴ったその電子音に、深いねむりのぬまの底から、無理やりかくせいまで引き上げられた。


「……う……ん?」


 目に、手足に、意識がわたらない感覚のまま、まくらもとけいたいに手をばし、つかむ。真っ先におもかんだのは職場からのれんらくだったが、画面に表示されていたのは知らないけいたいの番号で、それから次にかくにんした現在の時間は、仮に職場からのものであっても非常識としか言えない時間帯だった。


 四時四四分。


 ちがい電話? それとも?

 重たい頭で考えるが、鳴り続けるそれに、出ないというせんたくは思いつかず、めぐみは通話ボタンを押す。


「……もしもし?」


 きをせいいつぱいつくろって、電話の向こうへ問いかけるめぐみ。すると、それに対して返ってきたのは、少しも予想していなかった、まだ子供の声だった。


「え……っと、あっ、あの、?」


 男の子の、少しくぐもった声。

 その背後で、遠く、カ――――ン、コ――――ン、と学校のチャイムのような音が小さく聞こえていたが、それを疑問に思うよりも前に、めぐみは強くまどった。


「えっ?」


 いつしゆん、何を言われたのか、分からなかったのだ。

 けい君? お母さん? 相手の言っていることが、何もかも。しかし、そのいつしゆんの思考停止のあと――――ばつん、と急に厚いまくを破ったように、いきなり頭の中がはっきりとして、めぐみは思い出したかのようにじようきようあくした。


「あ、う……うん、そうよ」


 めぐみあわてて、どうようしながら、そしてそれをかくしながら、答えた。

 どうようしていた。いつしゆんけいのことが分からなかった自分が、こわかったのだ。めぐみにとってそれは絶対にあってはならないことだった。とりはだが立った。


「そうだけど……あなた、けいのお友達?」


 それでも平静をよそおいながら、めぐみはとにかくたずねる。

 子供の前でよそおうことには、めぐみは慣れていた。大人としてのいをする。まずはこの相手がけいのお友達であると仮定して、めぐみはまず注意する。


「あのね、さすがにこんな時間は、ちょっと……」

「うっ、あの……えーと……ごめんなさい」


 意外にもなおに謝る、いかにも電話が、あるいは人と話すことそのものが苦手そうな、それでもがんって話そうとしている様子の男の子。


「でももりくんのことで話があって…………あの、もり君、?

「えっ?」


 イタズラかとも思った。だが、頭ごなしに決めつけるわけにもいかない。それに何より、男の子がした質問。それがみように、頭に引っかかったのだ。


 家に帰ってる?


 当たり前だ。この子は何を言ってるんだろう?

 どういう意味? たとえば、昨日、いつしよに遊んだか何かして、何かトラブルがあって、家に帰ってないのではないかと心配になったとか?

 こんな時間に?

 電話をするほど?

 いや、それよりも、どうしてこの子は、私の電話番号を知ってるの?

 それ以前に、帰ってないわけがない。そんなことになっていたら、完全に事件だった。警察だった。

 当然、けいは帰っている。

 いると知っている。

 かくにんしている。


 かくにん……?


 いつしゆんのうちに、めぐみの頭の中には本当にたくさんの疑問が頭にかんだが、そこに思い至った段階で、めぐみの頭から血の気が引いた。

 

 昨日、家に帰ってきてからねむりにつくまで、めぐみとなりの部屋でけいていると思い込んでいただけで、一度もかくにんなどしていないのだ。


「…………っ!!」


 どうして?

 めぐみは、がばっ、ととんから立ち上がって、あわててふすまった。

 そして、電話のちゆうであることを完全に忘れて、がた、と音を立ててふすまに手をかけると、建て付けのよくないふすまを、大急ぎで開けた。


 

刊行シリーズ

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断章のグリム 完全版2 人魚姫の書影
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