端に大量の絵と画材が寄せられている部屋は、空けたスペースに布団が敷いてあったが、そこに寝ているべき我が子が、どこにもいなかった。
「えっ……えっ? 啓……!?」
もぬけのから。
携帯を持ったまま、パニックになった。
こんな、まだ外も明るくなっていない未明に、小学生の我が子が部屋にいない。今の今まで気がつかなかった。その事実は親にとって、恵にとって、完全に、背筋が凍るような恐怖以外の何物でもなかった。
「啓っ!?」
ほとんど金切り声のような裏返った声が、自分の喉から出た。
行方不明。パニック。いつ。どうして。だが、いくら考えたところで子供がいなくなった事実は変わらない。心当たりも、全くない。
警察。その言葉が頭をよぎる。
そして自分が携帯を握りしめたままなことを思い出し、いま電話中だったことも、同時に思い出した。
「ね、ねえ、あなた、何か知ってるの!?」
恵は、電話の向こうに、叫ぶように言った。
「啓がいないの! どこにいるか知ってる!? 何かあったの!?」
「えっ。あっ。はい。あー……えーと……」
電話の向こうの男の子は、パニック状態の恵の勢いに押されたように、しどろもどろになりながら言った。
「が、学校に…………たぶん……」
それだけ言って、電話は切れる。
恵は「あっ! ちょっと!」と慌て、一瞬だけ迷って履歴からかけ直したが、もう相手は出なかった。それから、電源を切られたらしいアナウンス。
「…………!」
焦った。
手がかりが途切れた。
学校、という言葉以外。
恵は、繋がらなくなった携帯を手に、すぐに顔を上げた。
「啓……!」
恵はハンガーから最低限の上着をひったくると、ポケットに入れっぱなしの鍵束の音をさせながら、大急ぎでパジャマの上に羽織って、そして裸足に靴をはいて、不確かな手がかりに一縷の望みをかけて、走って家を飛び出した。
†
「…………これでよかったのか?」
また電源を切った携帯を手に、床に座り込んだ由加志は、ただ黒いだけの携帯を見下ろしながら、ぼそりとそうつぶやいた。
啓から、何かあった時のためにと教えられていた、母親の電話番号に電話をかけた。そして学校にいるかもしれないとほのめかした。できたのは、それだけだった。
たったこれだけ。だが、できることをやったと思う。手元にあるものと情報全てで。
由加志は床に目をやる。カーペットに書かれた血の絵文字。手をつないで並んだたくさんの棒人間と、檻のような長方形。
これを由加志は、校門と推理した。
鉄格子の校門と、『学校わらし』の亡霊の列。そしてそこで助けを求める、啓を象徴する油絵具のチューブ。
菊から伝えられたそれだけの情報で、もう『ほうかご』が終わりかけている時間で、由加志ができそうなことは、これだけしか思い浮かばなかった。外に伝える。捜して、助けに行ってくれそうな人に。でも大人に『ほうかご』のことを伝えたら、記憶が削除される。だから最低限のほのめかしだけに伝える情報をしぼって、それ以上はボロが出るかもしれないので、もうやりとりしない。
短い時間で、がんばって考えた。
これでよかったのか? 確信は、全くない。
「堂島さん、これでよかったのか……? ほんとに……」
由加志は脱力したように、血の絵文字を見ながら問いかけた。
終わりのチャイムが過ぎた部屋は、あれほど満ちていた『ほうかご』の気配はもう残滓すらなくなって、外も空が薄明るくなり始めた世界には、すでに由加志の問いに答える菊の亡霊すら、現れる余地がなくなっていた。