8
恵は、白みかけた早朝の空の下を、学校に向けて走った。
何の根拠もなく、あまりにも薄い手がかり。本来ならば警察に連絡すべき。だが、なぜだか今は、学校に行くべきだという奇妙な確信があった。
そうでないと、間に合わないという奇妙な確信。
急がなければという確信。それに突き動かされて、恵は学校へと走っていた。
「啓……っ!」
上がる息の中で、子供の名前を呼ぶ。
その一心が、声にもれる。その一心で、恵は走る。
普段から運動をしているわけでもない大人の息はすぐに上がり、肺が悲鳴を上げ、心臓が負荷で早鐘を打つ。足はすぐに痛みを発する。だがそれでも恵は必死で走り、いなくなった啓を捜して、小学校へと走っていった。
「…………」
徒歩で十分ほどの場所にある小学校は、息せき切って走る恵の前に、ほどなくして姿を現した。薄明るくなりはじめた、しかし曇っていて青黒い空の下。明かりが完全に落とされて、ただぽつりぽつりと街灯に周囲を照らされているだけの校舎は、住宅地の中に、巨大にそびえる墓石のようにも見えた。
啓の通う小学校。そこにたどり着いたが、人の気配はもちろんない。
敷地はしんと静まり返っている。息を切らしながら、そんな真っ暗なグラウンドをフェンス越しにのぞきこんだ恵は、それでも誰かいないかと、中に入ることはできないかと、外周をまわって正門を目指した。
――――啓、どこにいるの?
心の中で、祈りのように唱え、問いかけながら。
啓を捜して。どうしていなくなったのかは後回しだった。いま啓がいなくなっている。大事なのはそれで、他のことは頭から消えていた。
正門が見えてくる。街灯に照らされた、大きな鉄格子の門。
やはり見える範囲に人はいなかった。だがとにかく門の前まで行き、門にとりついて中を覗きこみ、誰かいないか探した。
だが、
しん、
と静寂。正門も、その中の敷地もだ。
人がいる様子は、どこにもない。もちろん、啓の姿も。
「…………!」
焦燥にかられる。奇妙な確信をもって、恵はここに来た。
それは理屈ではなかった。しかし、母親の本能とか、理屈を超えた愛情といったような、綺麗なものではない。もっと暗い、恐怖と罪悪感に似た、何かの別の感情に突き動かされたその結果だった。
あの知らない男の子から電話があった時、反射的に意識が否定して、なかったことにしようとしたが、ひとつだけ間違いないことがあった。
恵は――――
啓のことを、忘れかけていた。
以前の生活を捨ててまで、闘って守ろうとした、自分の命よりも愛しているたった一人の息子のことを、忘れていたのだ。寝ぼけていたわけではない。あの電話で啓の名前を出された瞬間まで、つまり着信で目を覚まして電話に出て名前を出されるその瞬間までの間、恵は啓の存在を、完全に忘れていたのだ。
啓の名前も、存在も、自分が母親であることも、完全に忘れていた。
反射的に否定したその事実は、しかし時間を追うごとに罪悪感と共に反芻され、認めるしかなくなっていた。それは、あまりにも異常な事態だった。
物忘れなどという簡単なものではない、もっと、異常で、致命的な何か。
あの瞬間まで、自分の中から、我が子の存在が完全に欠落していた。それは思い返すと、とてつもない恐怖だった。
「…………!!」
我が子が、奪われそうになっている。
その存在と記憶までもが。何か普通でないことが起こっていた。
だから、恵は電話の少年の言葉を信じた。あの少年の言葉で、恵は啓のことを思い出したからだ。だから信じた。それなら啓はここにいる。見えていないけれども、このどこかに、きっといる。
それに、恵の直感も、それを肯定していた。
啓はここにいると。恵は理屈でもなんでもなく、ただ直感に従って、校門の前で、祈るように叫んだ。
「啓! いるの!? 返事をして!!」
啓はどこ? 啓に会わせて! 啓を返して!!
ごめんなさい! 忘れそうになって、ごめんなさい! だから帰ってきて! 私のところから、いなくならないで!
心の中でも、恵は叫ぶ。言葉でも、心の中でも。
「啓――――!!」
叫ぶ。涙を浮かべて。
その時。
――――――お母さん。
どこからか、啓の声が聞こえた気がして。
恵は大きく目を見開き、振り返って、何もない空間に手を伸ばし――――――