そのたびに見つからないように、早く離れてくれるように、頭の中で唱えた。
何度も何度も何度も。恐怖のあまり叫び出さないように、歯を食いしばって、願った。
ぺたっ。
ぺたっ。
ぺたっ。
また、足音がだんだんと大きくなってくる。
離れていた足音が、また近づいてきたのだ。
冷や汗が出る。体が、顔の皮膚が、固まる。
真っ暗な中で、たった一人教卓に身を潜めている、その背中のすぐ向こうに、〝あれ〟がだんだんと迫ってくる。
「………………っ!!」
息を止める。縮こまる。体が震える。
音を立てないように必死で気配を殺すが、体の震えが、体の中で鳴る心臓の音が、外に漏れているようにしか思えなくて、向こうに気づかれているのではないかと思えて、怖くて怖くてたまらない。
背後で、だんだん近づいて、大きくなってゆく足音。
ぺたっ。
ぺたっ。
ぺたっ。
大きく、近くなってゆく足音。そして教卓の板一枚だけを隔てた至近距離で、〝それ〟が動いている気配。
そのすぐそばで、自分の存在を悟られないように、口を両手で覆っている自分。
涙目になりながら、必死で身を縮めている自分。
ぺた。
そして────足音が、すぐそばで、止まる。
静寂。すぐそこに、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離に、気配が立ち止まる。
それから、
「…………………………」
じーっ、と。
視線が背中に降った。
無機質な視線が。無意思な視線が。立ち止まった気配から、音もなく立っている〝それ〟から、大きなガラス玉の視線が、じっ、と降り注いでいた。
今まさに隠れている教卓が、その周囲が、注視されていた。何の感情もない大きな目から向けられる、異様なまでに範囲の広い視野が、見えない圧力のように強い気配で注がれて、押しつぶされそうになった。
「…………………………………………………………!!」
いやだ!
見つかりたくない!
僕はここにいない! 誰もいない! あっちに行け!
心の中だけで、そんな願いを、叫ぶように唱える。呼吸と、震える体と心臓の音を、押さえこもうとするかのように、自分の体を強く強く抱き締める。
「…………………………………………………………………………っ!!」
緊張。
沈黙。
そして。
……ぺた。
ひどく長く感じた数分後。再び足音がして、背後の気配が離れた。
気配が動き出し、足音と共に、向こうへと離れはじめた。
しばし、確認。そして────安堵。
「…………!」
緊張と、いつまでこれが続くのかという恐怖と悲嘆は残したまま、それでもひとまずまた危機が去ったことに、何度めかになる少しだけの安心をした。
耐えろ。耐えるんだ。
自分に言い聞かせる。
耐えるしか、助かる方法はない。
幸い、身動きもせず音も立てなければ、〝あれ〟はこちらに気づかない。頑張って、時間切れまで耐える。そうすれば助かる。そう確認する。
そう確認した、その瞬間だった。
突然着信した。
胸ポケットの携帯が。
肌に伝わる振動。それと振動の音。
静寂の中に、マナーモードの振動の音が、恐ろしく大きく響きわたる。
「ひっ!!」
その感触と音に飛び上がった。
なんで!? どうして電話が!? ぶわ、と全身に鳥肌が立ち、慌てて着信を止めようと、反射的に胸ポケットに手を入れて、中の携帯を引っ張り出した。
途端、自分の周囲が明るくなった。
むき出しになった、点灯した画面の光が暗闇に広がって、教卓の下が、目の前の壁が、黒板が、明るく照らし上げられた。
「あっ」
失敗を悟った。
狼狽。
「あ……あ……!」
そして狼狽して動けない、その目の前で。
頭のすぐ上にある教卓の縁を、
子供の手の指がつかんで、
人形の頭が、
長い子供の手が、
見開いた視野の上の端から、
ぬーっ、
と目の前に、
這うようにして現れて──────
「────────────────────────────────っ!!」
大きな、大きな悲鳴をあげた瞬間。
がば、と長い死肉の手が一瞬のうちに伸ばされて、その叫んだ口を、顔を、抵抗しようと前に出した腕を、その冷たくおぞましい五本の指で、捕食するように乱暴につかんだ。
…………………………!!
………………………………………………!!
………………
2
駆けつけると、悲鳴が聞こえた教室の中には、見たことのない〝化け物〟がいて。
そしてその〝三本の手が生えた人形の頭〟がうろつく教室の床に、窓の外から向けられた懐中電灯の光に照らされて、血の海の中に落ちている春人の千切り取られた手足と、それから残った頭と胴体が、どういうわけかまるでオーブンの中で焼かれている樹脂のように、じわじわてらてらと縮みながら変形しつつあるのを見て──────
「────────────────っ!!」
駆けつけた一同は。
一斉に、すさまじい悲鳴をあげた。
†
六月二十日、金曜日。
深夜の『ほうかご』。この学校の『ほうかごがかり』の集合場所になっている一階の玄関ホールでは、いま五人の少年少女が、立ちつくし、座りこみ、膝をかかえ、全員沈鬱に黙りこんで、あるいは涙を流していた。
暗いホールだった。
いるのは四人の女子と、一人の男子。
五人。これが今年の『ほうかごがかり』の全員だ。つい今しがたそうなった。最初は男子が三人いたのだが、そのうちの二人目が、いま死んだのだ。
担当していた教室で、異常な死を遂げていた。
ここにいる一同は、悲鳴を聞いて様子を見に駆けつけたところで、恐ろしいそれを発見し、急いでここまで逃げてきたばかりだった。
この小学校の校舎は、建ってから五年ほどの、まだ新しい建物だ。その一番大きな入り口である玄関ホールの中で、悲嘆と、恐怖と、絶望と自失が、いくつかの懐中電灯と電池式のランタンによって、薄暗がりの中に陰鬱に照らし出されていた。
玄関ホールは暗かった。
この学校の『ほうかご』は、外灯には明かりが灯っていて、敷地とグラウンドは端まで見通せるくらい充分に照らされていた。にもかかわらず、逆に校舎内の明かりはどういうわけかほぼ全く機能しておらず、建物の中は真っ暗か、死にかけて点滅している電灯ばかりだった。
この玄関ホールも例外ではない。明かりはなかった。ただ本来は真っ暗なはずのホールは、外につながっている大きなガラス戸があるので、そこから射しこむ外の明かりによって、薄ぼんやりとだが照らされているのだ。
それから少年少女たちがそれぞれ所持している、携帯型ライトの光も。
それらの強い、しかし限定的な明かりが、ホールに立ち並ぶスチール製の下駄箱と、事務室に続いている受付の窓と、壁の掲示やポスターなどを、切り取るようにして浮かび上がらせている。
それから浮かび上がっているものは、もう一つ。
バリケードだ。このホールからは、北と南の校舎へ向けて二方向に廊下が伸びていたが、それらはどういうわけか大量の机を積み上げて作られた大きなバリケードによって、物々しく封鎖されているのだった。
入り口から入って左右に続く、封鎖された廊下。
そして正門とグラウンドにそれぞれ出ることができる、前後の大きなガラスの引き戸。
玄関ホールは、いわばその十字路だ。そして奥のガラス戸から見えるグラウンドには、石を積んだ粗末な墓標が二十ほど並んでいて、それから今は誰も目を向けていない正門方向のガラス戸には、鉄の格子の門と、そのさらに向こうに、互いに手を繫いだ子供の亡霊の列が並んでいるという、異様な光景がのぞいていた。