同じくパパの持っていた、クレヨンくらいの大きさだが強力なライトに、筆記用具や携帯や絆創膏を入れた、愛用のサコッシュ。
それらを手に、ドアの向こうの不気味に薄暗い夜の学校の廊下へと踏み込むと────
ぐるん、
と体の中をひっくり返されたような一瞬の強い眩暈のあと、首に赤いリボンを結ばれた自分が、廊下の真ん中に立っていた。
シャ──────────ッ、
と降りそそぐ、放送の終わったスピーカーから漏れ続ける、細かい砂のようなノイズ。
そんな校舎の中で、頭と体の中にかすかに残る、ドアをくぐった感覚の残滓に少し眉を寄せて、華菜は顔を上げた。
目の前にあるのが、華菜が担当している化け物の教室。
だが華菜は、いつもそうするように、それに背を向ける。照明が明滅するたびに、窓に赤茶色の手形と、『たすけて』という無数の文字が浮かび上がる教室を放置して────華菜は身をひるがえし、玄関ホールに向けて歩き出す。
「…………」
照明がひとつも点いていない、暗い廊下だった。
だが、ライトが必要なほどではない。この『ほうかご』の学校の中は、基本的に明かりがない真っ暗闇だったが、窓が続いてカーテンもない廊下に限っては、外を照らす外灯の光が常に射しこんでいて、夜の街を走る車の中くらいには明るかった。
こつこつと靴の足音を立てて、普段は外靴で入ることはない廊下を、足早に歩く。
白黒写真を思わせる、影の強い廊下。しかし廊下は、曲がりなりにも光があって見通せているのに対して、その片手側に続いている教室の窓は、中を垣間見ることもできないくらい完全な暗闇に閉ざされていた。
常に片方に感じる、黒い圧迫感。
だがそれはある種、安心の証明だった。
なぜなら、ここで過ごした『かかり』は、みんな知っているのだ。
少しでも明かりがある教室には化け物がいる。
たったいま華菜が後にした自分が担当する教室も、みんなが担当している教室も、それから先週、惨劇を目の当たりにした春人が死んだ教室も、同じだったようにだ。
こつこつこつこつ……
そんな、静かな不安と圧力から逃れるように、足早に廊下を進む華菜。
進んで、真っ暗に口を開ける階段にさしかかり、ここでライトをつけて、階段を二階ぶん下りる。
そして職員室や事務室の掲示と扉を横目に、廊下の突き当たり、ホールの入り口へ。
そこをふさいでいるバリケードへ。たくさんの机と椅子が積み上げられ、異様なオブジェかパズルのように組み合わされて、通路を埋めてふさいでいるそれに、近づく。
それから、一度うかがうように背後を振り返ったあと、その片隅にしゃがみこんで、バリケードの中でたった一つだけ下を通り抜けることができる、秘密の抜け道になっている机にもぐりこむ。そして、トンネルになっている四つ分の机の下を、頭を低くして通り抜けて、ホールに顔を出す。
そして立ち上がり、みんなを見回した。
「よいしょ、と……みんな、今日もおつかれさま」
挨拶した。反応が返ってきた。
「こんばんは、五十嵐さん」
「……」
「……」
すでにみんなそろっていたが、挨拶として返ってきたのは、恵里耶一人からだけだった。
あとは目礼。会釈。だが華菜はそれを気にすることなく、くぐってきたばかりのバリケードの抜け道のあたりに手を当てて、少しだけ笑って見せた。
「この『かかり』は最悪の最悪だけど、ここくぐるのだけは、ちょっと好きかな」
言う。
「秘密基地みたいで」
その言葉に、湧汰が「あー……少しわかる」と小さな声で言って、困ったように頰をかく。
反応はなくてもみんな同じように思っていたのか、ほんの少しだけ、場に張りつめた空気がゆるんだ。ランタンと人形を手にしてホールの真ん中に立っていた恵里耶が、そんな華菜の言葉を引き取るようにして、口を開いた。
「……秘密じゃないけど、基地なのは合ってる」
そう言う。
「ここのバリケードは、三年前と四年前の『かかり』が作ったの。そのころ、校舎の中をうろついてる化け物がいたらしくて、それが、ここまで来れないようにしたんだって。そう、『メリーさん』が言ってた」
「そうなんだ」
華菜は、触れているバリケードを見上げる。
教室や職員室にある机と椅子を積み重ね、紐やガムテープやビニールテープで縛って、廊下の天井まで埋めてしまっている構造物。あまりにも物々しくて禍々しくて、製作者たちの必死さが伝わってくるかのようだ。
華菜も、軽口を叩きはしたが、このバリケードを見るのは少し怖い。
ワクワクする部分もあるが、それ以上に見ると不安になる。怖くなる。この物々しい姿には明らかに、これを作った子供たちの必死さと、拒絶と恐怖が宿っていた。
ここまでしてふさがなければいけなかったのだ。
ここまでして侵入を防がないといけない何かが、以前に存在していたのだ。
きっとそれは、このバリケードのすぐ向こう側まで来ていた。
他人事ではない。自分たちの前に、そんなものが現れない保証はない。
と────
『今夜も、いらっしゃい。かわいそうな、かわいそうな、みんな』
そこに、不意に落ち着いた、しかしはっきりとした少女の声が響いた。
「!」
全く動いていない恵里耶の口から出た、同情をたたえた呼びかけ。それを聞いてみんなが目を向ける。たったいま話に名前が出た、『メリーさん』の声だった。
『今夜も、みんなご苦労様。今日は無事でありますように』
彼女はまず、祈りのような言葉を口にする。
『何かあったら、遠慮なく相談して。それが私の役目だから』
そして、そう改めて確認する。それを言う恵里耶からは人形のように表情が抜け落ちていたが、ランタンの光に照らされながらわずかにかしげられた貌は、見ている全員に憂いの感情を幻視させた。
首のない人形『メリーさん』は、グラウンドにある朝礼台にいる化け物だ。
毎年『かかり』にいる霊感のある子が担当になって、その口を借りて話し、顧問の先生のような立場で助言をしていた。
御島恵里耶は霊感体質だ。正確には霊媒体質。つまり取り憑かれやすい。
こうして『メリーさん』が話している間、恵里耶は口を、正確には首から上を、『メリーさん』に使われている。
だがこれは恵里耶が取り憑かれたりとか、乗っ取られたりとか、そういう状態になっているわけではないらしい。こうしている間の記憶も感覚も普通にあり、そうしようと思えば簡単に主導権も取り返せるので、本人の感覚としては本当に『貸している』ような状態だという。みんな初めのころは不気味がり、怖がり、怪しんでいたが、今は恵里耶の体質も、それから『メリーさん』が顧問であることも、みんな受け入れていた。
実際に助言は役に立っていたし、彼女の言葉はいつも『かかり』に同情し、『かかり』のことを心配していた。それに、ちゃんと味方としての立ち位置を明確にして、行動もしてくれている相手を、いつまでも疑い続けるには、この『ほうかご』はあまりにも危険で恐ろしくて、あまりにも心細い場所なのだった。
『今日は、みんな、どうするの?』
彼女はまず、いつものように、みんなに『ほうかご』での今日の行動指針をたずねた。
『いつもと同じ────ようには、いかないわよね』
そして今日は、無表情ながら少しだけ悲しげに、付け加える。それに対してみんな、うなずくか、うつむいた。先週の春人の死は、まだ全員の中で尾を引いているし、まだ何も解決していなかった。
「うん、今度こそ、越智くんのお墓を作ろう、って思って」
代表で答えたのは、華菜だ。
「先週はできなかったから。あと、越智くんの教室をどうしよう、って。あの化け物が外に出てくるかもしれない感じなら、ふさがないと」