それを背中の向こうに聞きながら、走る。
息を切らせて、バタバタと走って、走って、走って、逃げる。
そして、階段を一階まで駆け下りた、その時だった。
ずるっ、と足が滑った。足が階段から床を踏んだ瞬間、硬いタイルの床に、うっすらと砂がまかれているのを踏んだ感触がして、思い切り靴が前へと滑ったのだ。
「!?」
浮遊感。飛び上がる心臓。かろうじて身をひねり、頭をかばった。階段に頭を叩きつけられる最悪の事態だけは回避したが、転倒し、激しく腕を打ちつけ、骨が折れたかのような激痛が走って、息が止まった。
「うぐっ!!」
押し殺した悲鳴。それでも必死で、床を這って顔を上げた。
バールもライトも離さずに守った。止まっている暇はなかった。早く逃げないと。早鐘を打つ心臓。灼熱する腕の痛み。
「……っ!!」
膝を立てる。立ち上がる。
そして、バリケードまで続く廊下へ出るために、前のめりに、うっすらとした砂を踏みながら前を見た時────振られてよぎったライトの光に、それが照らされた。
「ひっ!?」
見た。息を吞んだ。悪寒。衝撃。
頭が理解を拒んだ。そこには。階段から廊下に出た、そのすぐそこに、
湧汰の砂像があった。
激しい苦悶の表情を浮かべ、周囲の床にうっすらと砂を広げて、家庭科室にあったはずの湧汰の亡骸が、一階の廊下に、移動していた。
「!!」
硬直する。動けなくなる。
その背後で、
ピンポーン、
と階段の上に設置した、センサーが鳴る。
追いつかれた。迫っていた。気配が、足音が、階段を下りてくる。
ぺた、ぺた、と。そして、立ち尽くす華菜の目の前で、ライトの光に照らされた、湧汰の形をした砂が、その苦悶に満ちた顔が、こちらを向いた。
「わあああああああああああああああああっ!!」
叫んだ。決壊した。
全力で悲鳴をあげて、全力で廊下に飛び出して、全てを振り切って、全力で逃げた。
走った。走った。そしてやがて、バリケードにたどり着く。華菜はそのまま、通路を埋めて机が積み上がったバリケードの隙間に急いで滑りこみ、ガン! と音を立てて扉がわりの机で隙間を埋め、鍵がわりのロープを倒れこむようにして引っ張って、組み合わされた他の机の脚に震える手でくくりつけた。
その途端、
ピンポーン、
と少し遅れて、バリケード近くに設置したセンサーが鳴った。
そして、
ガタガタガタガタガタッ!!
とバリケードが強く揺さぶられた。
たったいま華菜が逃げ込んだ、抜け道をふさいだ、扉がわりの机が外からつかまれて、引き剝がそうとして揺さぶられたのだ。
「………………………………………………!!」
座り込んだ。凍りついた。動けなかった。激しく揺さぶられるバリケードを、大きく見開いた目で見つめながら、バリケードの内側に尻餅をつき、身動きもできずに、ただただ震える体で、肺で、震える呼吸を繰り返した。
バリケードを揺さぶる音は、すぐに止んだ。代わりに、
ピンポーン、
ピンポーン、
と明らかにバリケードのすぐ向こうをうろついている、センサーの音が響いた。
ピンポーン、
繰り返される電子音。華菜に逃げられ、しかし諦めず、執念深くバリケードの向こうをうろついている、怪物の立てる音。まるで、異常者が玄関の前に立って、ずっと居座って、執拗にチャイムを鳴らしているかのように。
人形頭の怪物が立てる音。
春人の顔をした怪物の立てる音。
その状況がとても吞みこめず、とても信じられず、華菜はただ、バリケードの内側で固まるしかなかった。そして、この異常事態に気がついた恵里耶が、遅れて慌ててぱたぱたとホールに駆けこんで来て、華菜の隣に立って、センサーのチャイムがずっと向こう側から聞こえているバリケードを、呆然とした表情で見上げた。
「えっ……なにこれ……」
つぶやくように恵里耶が言った。
ピンポーン、
ピンポーン、
引きつったような沈黙の中、バリケードの向こうから、ホールにセンサーの音が、繰り返し鳴り響く。
そんな怖れと緊張の中に、海深と陸久が、反対側のバリケードをくぐってやって来る。
そして二人も、この異常事態に怯えて、縮こまる。
「………………!!」
この日は誰も、ホールから外に出られなかった。
心待ちにしていた湧汰と春人が、ホールにやって来ることは、なかった。
………………
3
そして、水曜日。
華菜が夏休みの公園に呼び集めたみんなの前に、一人の歳上の少年が立っていた。
たくさん絵の具汚れのついた帆布のリュックサックと、折りたたみ式のイーゼルを背負った中学生。古着のTシャツに、ジーンズ、目深にかぶったキャップ。これもやはり絵の具で少し汚れている帽子のつばの向こうから、据わった目が、華菜たちをじっと見ていた。
「……二森啓。中学二年。神名小ってところで『かかり』をやってた」
啓は、みんなに向かって、そう自己紹介した。
華菜がそれに付け加えて、みんなに言った。
「元『かかり』の人を、見つけてきたの。アドバイスしてくれる経験者」
何も聞かされていない、恵里耶以外のみんなが驚いた。だが、その次に続けた華菜の言葉に、みんなの雰囲気が、どことなく沈んだ、重い納得に変わった。
「もう────わたしらの手には負えない、って思ったから」
「……」
ああ……といった雰囲気だった。
もう手に負えない。全てはそれに尽きた。華菜は配慮して注目しないようにしていたが、他のみんなはその最大の原因に思わず目を向けていた。
湧汰と春人の、二人に。
死んだ二人。その後でどういうわけか生き返ってきた二人。そのとんでもない異常事態をせめて前向きに受け止めようとしたのに、『ほうかご』に来ることがなかった二人。その代わりに二人が変わってしまった化け物が『ほうかご』の校舎内を徘徊するという恐ろしい事態になっていた、そんな渦中の二人。
その二人はみんなの視線にさらされながら、中でも一番気になる視線に向けて、視線を返していた。啓の視線に対してだ。湧汰は、毅然としつつ斜に構えて。それから春人は、露骨に不安そうに。
初めて会う、しかも特殊な事情の、特殊な肩書きの人間だ。何を言われるのか、そもそも本当に信用できるのかといった、警戒の視線を向けられながら、啓はそれらを意に介さずに、二人に向けて問いかけた。
「……二人は前回、『ほうかご』に行けなかったって聞いたけど」
「あ、ああ」
その問いかけに、湧汰が答える。
そして、一度華菜の方を見て、華菜がうなずいたのを見て、その時の事情を語った。
「いつもみたいに準備して、時間になるのを待ってたんだ」
華菜たちは、すでに聞いたその話。
「でも、いつ時間になったのかも分からなかったし、チャイムの音も聞こえなかった。なんかいつの間にか寝てて────夢を見たんだ。俺が、砂の化け物になって夜の校舎の中をうろつき回ってる夢だった」
「……」
そうなのだ。隣に立つ春人も、その話に合わせて、小さくうなずいた。