それだけは確かな成果だった。というのも二人がはじめた新しい『記録』は、その効果が歴然だったのだ。
模型の表面を広がっていた血管が、二人が新しい『記録』をはじめてから数回で、明らかにその速度を落としたのだ。いまや、つる植物にびっしりと覆われた廃屋を思わせる状態で、上半身が不気味な血管に覆われている人体と骨格の模型。表面に赤い血管がびっしりとからみつき、元の模型の白い部分は異様な網目模様の間から透けて見える状態で、その集合体から下半身に向けて植物の根のように血管が垂れ下がっている異常な物体が、徐々にその増殖を止めたのだ。
今までは、ただ見ているだけでも、前回との違いがうっすら分かるほどだった。それが、見ても分からない程度になった。そして二人が図として『記録』していることで、その増殖度合いがはっきりと見えるようになって、だんだん沈静化していることが確実になった。
恵里耶は、それまで啓のことをあまり信用していない様子だったが、確かな効果が証明されたので、疑う理由はなくなった。
「わかった。これからは『しおり』に書いてること、信用するね……」
それを聞いて、華菜はホッとした。啓の協力と『かかりのしおり』が、自分たちには必要だと華菜自身は確信していたが、これのせいで意見が割れるかもしれないとは思っていて、それでみんながバラバラになるかもしれないことを、内心では恐れていたからだ。
啓の協力によって、華菜たちの『かかり』は、危機から立て直すことができた。
綱渡りのような思いをしながらも、誰ひとり怪我すらすることなく、夏休みのあいだを、無事にやり過ごすことができたのだ。
そして一ヶ月。二ヶ月。
安定とも足踏みとも言える、新しい犠牲者も進展もない、まるで最初の頃のような、『かかり』の日々が過ぎた。
状況が安定し、夏休みが終わってからは啓の訪問も一ヶ月に一度になり、日が経つにつれて双子も模型の直視に慣れて自信がつき、それから仕方がないけれども、『ほうかご』に来られなくなった湧汰と春人とは少しだけ距離があいてきた気がしてきた、そんな頃。
油断があった。
華菜たちはここにきて、自分たち『かかり』がどうして存在するのか、初めて本当の意味で理解することになったのだった。
6
十一月のはじめ。
暑い夏が過ぎ、マンションの前のサルスベリの花が咲いて落ち、秋が深まって、過ごしやすい涼しさがまだ続くのだろうと思わせる頃。
あかね小学校で、児童の怪我が相次いだ。
休み時間中などに、骨折したりする児童が三人、一週間ほどのあいだに続いたのだ。
廊下を走ろうとした拍子に足の骨を折った男子。
雲梯にぶら下がって手首を折った男子。
理由は分からないが、掃除の時間に縫わなければならないほど手のひらを切った女子。
それぞれ大きな問題にはならなかったが、過ごしやすい気候になったからといって、あまりはしゃいで激しい運動をするなどして怪我をしないようにと、学校から児童と保護者に向けて注意が出た。
たまたま、偶然、続いただけの、単なる事故。
だが、華菜たちには、それらの事故に、とある心当たりがあった。
それらの事故が起こった週の直前、前の週の日曜日に、湧汰が怪我をした。学校のグラウンドで所属チームの野球の練習をしている最中、ダッシュで走っていた時に、右足の付け根の骨を折ったのだ。
疲労骨折の診断だった。
それ自体は、気の毒だけれども、そういうこともある、といった出来事だろう。
だが月曜日。湧汰が入院して学校を休むという知らせを華菜たちに伝えにきた春人は、明らかにそれだけではない深刻な表情をして。
そして、華菜に言ったのだ。
「なあ…………志場くんが怪我したの、『ほうかご』の僕のせいかもしれない。どうしたらいいと思う?」
「えっ?」
春人は事情を話した。
それは金曜日の夜のことだった。
ずっと春人は『かかり』の時間に、もう『ほうかご』に呼ばれることはなく、代わりに夢を見ていた。どんなに寝ない心づもりでいても、十二時十二分十二秒になると、意識がなくなるように眠ってしまい、そして自分が〝化け物〟になって、『ほうかご』の学校を延々と徘徊する夢を見るのだ。
夢だ。自分の自由ではない。
夢を見ている間は自分の意思で行動しているつもりだが、自分の意思ではないことに、目が覚めた後に気がつくのだ。
自分は夢の中で、奇妙に暗くてノイズがかった、モノクロームな視界の中、『ほうかご』の校舎の中を歩いている。砂嵐の中にいるかのように息苦しくて、体が、というよりも自分の動きの全てが砂の中にいるかのように重くて、悪夢の中で走っている時のように、全ての感覚が不自由だった。
感覚は四つん這いだ。
手足で歩いている。動物のように。何の疑問もなく。視野の下の端に、自分の手が二本、自分が動くたびに、見え隠れしている。
ぺた、ぺた、
と自分の足音が聞こえる。
暗くて空っぽの廊下に、自分の足音だけが響き、そうやって自分が移動してゆく先に、明滅する天井の照明が灯っていった。
天井の照明が、延々と自分についてくる。そして時折、視界の端に緑色の光が小さく灯って点滅し、ピンポーン、と甲高い、しかし段ボール箱を頭に被っているかのようにくぐもった、チャイムの音を鳴らす。
そんな中を徘徊していた。目的はなかった。
徘徊する自分の頭の中にあるのは、虫のような空っぽな虚ろ。何も思わなかった。ただ感じているのは、不自由さと、孤独だった。
孤独だ。
孤独感。
暗くて広い、迷宮のような校舎の、無為な時間の中に、たった一人。
空虚な孤独感と共に、しかしだからといって何の目的もなく、暗くて重くて空っぽの、ざらつく迷宮を徘徊し続ける自分。誰もいない。誰とも会わない。気配は感じることがあるが、そこに行っても何もいない。もうずっと、何とも出会っていない……
春人はずっと、そんな夢を見続けていた。
毎週金曜日の深夜に、そんなただ長いばかりで、何の意味もない夢を。
いや、誰とも会わないのはいい。あの自分は〝化け物〟なのだから。もしも誰かに会ってしまったら、どんなことになるか分からない。ただ、いつもいつも同じ、変わり映えのしない、自分がゲームオーバーになったのだということを再確認させられるだけの夢は苦痛で、そんな憂鬱な、だが避けようもない澱んだ悪夢をまた見なければならないのだと重い気持ちで眠りについた春人は、案の定この日もいつもと同じ夢を見たが、しかしそれは、いつもと同じではなかった。
いつものように、虚ろな迷宮を徘徊していた〝自分〟は。
出会ったのだ。
砂の像に。
苦悶の表情で砂の像となってしまった少年に、廊下を徘徊していた〝自分〟が、不意にでくわしたのだ。そんな、自分以外のモノとの久しぶりの遭遇をした〝自分〟は、いっぱいの歓喜と共に像へと近づいて──────そして手を伸ばして右足の付け根をつかみ、そこから砂をむしり取って、その砂の塊を、口に運んで喰ったのだ。
ばつん、
とその瞬間、一瞬だけ照明が落ちて、フィルムを切り落としたように、像は目の前から消えていた。
『………………』
数秒動きを止めた〝自分〟は、その間に、すーっ、といっぱいの歓喜を失って、伸ばした手を引っ込めて、また元と同じ虚ろな徘徊を再開した。
この日は、後はそれ以上、何かに会うことなく終了した。