そうしてほどなくして目を覚ました春人は、その普段とは違っていた異様な出来事と、〝自分〟が喰ってしまった〝湧汰〟の部位のことを、なんだか脳にへばりつくような嫌な感じで憶えていたのだが────その土曜日の夜、湧汰からの電話を受けた。用件は、まさに昨夜に見た夢の話と、その夢の中で〝化け物〟の春人が喰ったのと全く同じ部分を、湧汰が前触れもなく怪我したというものだった。
「……絶対、あれが原因だと思う」
いつも集まっているホールの、グラウンド側の出口の外の隅。春人は下ろした細い腕の先で怯えるように拳を握り締め、華菜にそう言った。
眼鏡の奥に見える目が伏せられて、足元を見ている。元々、人と目を合わせるタイプではなかったが、〝化け物〟に殺された後に生き返ってきたあの日から、以後、ますますその傾向が強くなっていた。
屈託なく話すのは、湧汰とだけだ。
「電話で、志場くんも、夢の中で食べられた感覚をはっきり憶えてて、ずっとその場所が気になってた、って言ってた。それより前も、生き返ってから指先の感覚が鈍かったり、体というか胴体っていうか、腰のあたりが変に疲れやすくなった、って言ってたから、やっぱ『ほうかご』で僕らが死んだことは、こっちの僕らにも良くない関係があるんだと思う」
「そうなんだ……」
深刻な表情で春人の話を聞く華菜。一緒に『かかり』ができなくなって、二人のいない『かかり』も安定してきて、華菜たちと春人たちの間には少し距離ができた。そのことを華菜は寂しく思いつつも、しかし二人が『かかり』から離れられるの自体は良いことだと、できるだけ前向きに考えようと思っていた矢先の、この事件と相談だった。
「……そっか」
華菜は、伸ばして尖らせた左手薬指の爪を気にして、手のひらに触れさせながら、少し顔をうつむけた。
そしてすぐに顔を上げる。
「そっか、わかった。じゃあ、どうしよっか」
そう訊ねる。
「何かしてほしいこと、ある? 教えて。そっちは夢で自由になんないんだよね? 越智くんと志場くんがどんな感じなのか、わたしらにはちゃんとは分かんないからさ」
もう何ヶ月もリーダーとして振る舞ってきた華菜は、判断が早かった。不意にもたらされた良くない報告と相談に感じた不安から、華菜はすぐさま頭の中を切り替えて、必要なことを当事者に確認した。
春人は答えた。
「うん、まだ志場くんとはちゃんと相談してないんだけど……僕の考えでいいなら」
こちらも最初の頃とは比べ物にならないくらい、物怖じのない発言。これまで強いられてきた『かかり』の活動で、みんな成長しているのだ。
だが、春人がそうして意見を言おうとした、その時だった。
つん、
と急に服の背中が引っ張られ、華菜は振り返った。
「うん?」
振り返った先には、恵里耶。恵里耶は華菜の上着の背中をつまみ、しかし視線は華菜を見ておらず、別の場所を見ていて、そしてその顔は、こわばっていた。
「えっ、なに? どしたの?」
「……」
気分でも悪くなったのかと思って、驚いて訊ねた華菜。その様子に双子も、それから春人も話すのをやめて恵里耶を見ると、その視線の中で恵里耶は、自分の見ていた方向に黙って人差し指を向けた。
「……」
「え?」
振り返った。恵里耶が指さしていたのは、華菜たちが立っているグラウンド側の出入り口から、玄関ホールのほぼ対角線上だったホールから校舎へと続く東西の廊下の片方、『ほうかご』ならばバリケードがある場所だった。
廊下が見える。
朝なので人がいる。
それだけだった。何を指さされているのか、華菜には分からなかった。
しかし分からないままに、指さされるままに、華菜はそのあたりをじっと見つめて。そしてあきらめて答えを恵里耶に聞こうとしたその時、ようやく華菜は、その風景の中にある奇妙なものに気がついた。
壁に。
天井からぶら下がった手の影があった。
子供たちが通り、あるいはふざけ合っている廊下の、白い壁の天井付近。そこに細長い明らかに子供の腕の形をした影が映っていて、太いロープが垂れ下がるようにして、かすかに揺れていたのだった。
「……!?」
絶句した。そんな形の影ができるようなものは、もちろん廊下の天井には、一切存在していない。みんなが行き交う中、五本の指の形もはっきりとしている腕の形の影が、誰にも気づかれることなく、頭上の壁でゆらゆらと小さく揺れていた。
「…………………………!!」
鳥肌が立った。目を見開いた。
春人も双子も気がつく。息を吞む気配がした。
誰も、何も言えずに固まっている中────その手の影は、偶然や錯覚のように、消えてくれたりはしなかった。
影が不意に、するするっと蛇のように下まで伸びた。
そして、ぎょっとした華菜たちが見ている先で、廊下に溜まってふざけ合っている年少の男の子の、壁に落ちた影へと向かっていくと、今まさに走り出そうとした男の子の影の足首を五指でつかんで、その部位をむしり取った。
「!?」
直後。
男の子が激しく転倒した。
「痛あ──────!!」
男の子の大きな悲鳴。その声に一瞬、廊下とホールが静まり返り、次にその静寂に流れ込むように、大きなざわめきと騒ぎが広がった。
倒れた男の子は起き上がらなかった。立ち上がれない様子で泣き声を上げた。その足首が異様な方向に曲がっていた。そこはまさに、たったいま彼の影がむしり取られた部分で────そしてそれをした手の形をした影は、先生が走ってきて騒ぎになっている廊下の頭上で、当事者たちの誰にも注目されることなく、天井に引っ込んで消えた。
「あ……」
見てしまった。
目の前で大きくなってゆく騒ぎを見ながら、華菜たちは立ちつくした。
いましがたの春人の相談。それと目の前で起こった怪我と、自分たちの見たものが、無関係だと思う者は、この中にはいなかった。
何かまずいことが始まったのだと、そして湧汰の怪我は、おそらくそれの始まりだったのだと、誰もここでは口にはしなかったが、華菜たちの誰もが心の中で予感し、そしてまた、確信していた。
7
「僕の考えを言うね。もしできそうなら────向こうにいる〝化け物〟の僕を、どこかの部屋に閉じこめてほしい」
次の『ほうかご』を目前にした金曜日の、放課後の公園で、春人が口にした希望。
湧汰の怪我と、あの男の子の怪我。砂になった湧汰の足をむしり取った〝化け物〟の自分の手と、男の子の影から足首をむしり取った得体の知れない影の手。春人はそれらを無関係だとは考えなかった。どちらも〝自分〟だと確信している様子だった。
「きっと、何か新しい段階に入ったんだ」
湧汰の登校は来週からになるので、一人欠けた話し合いで、春人はそう言った。
「志場くんの怪我は、絶対〝あっちの僕〟のせいだ。それと学校で続いてる怪我も。〝あっちの僕〟が喰ってるんだ。このままだと志場くんか、他の誰かを殺しちゃうと思う。それを止めるために、閉じこめてほしい。僕の担当してたアレにやったみたいに」