春人の担当していた『青い目の人形』がいる部屋は、戸にストッパーを差しこんで、開かないようにして封印していた。春人を殺したあの〝化け物〟が出てこられないように閉じ込めている。それと同じようにしてほしいというのが春人の願いだった。
「でも、できれば、でいいんだ。みんなに危険なことしてほしいわけじゃないから」
ただ、春人はそうも言う。
「できそうならでいい。チャンスがあればで。ただ、それは置いといても、〝あっちの僕〟がどうなってるのかは、確認しなきゃいけないと思う。閉じこめてあるアレ────『青い目の人形』の方も。それから、志場くんのやつも」
そのどれも、もう長いあいだ、華菜たちは目視していない。センサーのチャイムが鳴った段階で、華菜たちはすぐに逃げているからだ。
「もしかしたら、最悪、〝僕ら〟を『記録』する誰かも必要かも……」
悩ましい様子で言う、春人。
華菜はすぐに決めた。
「それ、わたしがやる」
「え!?」
春人だけでなく、双子も恵里耶も、華菜を見た。
「危ないよ!?」
「危ないよ! 絶対!」
驚いて言う双子。恵里耶が念押しするように、確認して言う。
「……本気?」
「本気だよ。誰かやらなきゃいけないなら、たぶん余裕あるのはわたしだし。海深ちゃんも陸久ちゃんも、わたしがついて行かなくても、もう平気だよね?」
華菜は答えて、それから双子に向けて問いかける。
「え……」
「え……うん……」
戸惑いながらもうなずく双子に、華菜もうなずく。
「じゃあ、わたしが確認に行くね」
華菜は言った。
この『かかり』のリーダーとして。新たな問題に、対処するために。
†
そして十二時十二分十二秒。
チャイムの音。『ほうかご』。三十三回目。
『……かかり、の、連絡でス。
ほうかごガかり……は、ガっ……こウに、集ゴう、シて下さイ』
ガリガリと不快に音割れした、呼び出しの放送。カチャ……と小さな音を立てて勝手に開いた、その向こうに深夜の学校が続いている自分の部屋のドアを、華菜はいつものように、しかし今日は久しぶりの本物の緊張と共に、通り抜けた。
「……っ」
いつものようにめまいがして、自分を取り巻く空気の匂いと温度が、全く変わる。まだ新しい学校の匂いがする冷たい空気。それを胸に吸い込むと、華菜はバールの重みを確かめるように、あらためて握り直し、ホールへ向かって歩き出した。
「…………」
外靴で学校の廊下を歩く、自分の足音。
変化のない、ひどく停滞した異界の雰囲気がある『ほうかご』の校舎だが、この数ヶ月で明らかに変わったことがある。自分が歩くときにする足音と、歩くときの靴底の感触が、最初の頃とは違っているのだ。
さりっ、さりっ、という、かすかな音と感覚が、一歩一歩に混じる。
砂埃だ。学校中の床という床を、細かい砂埃が、うっすらと覆っているのだ。
心なしか、校舎内の空気の匂いも砂っぽく、グラウンドに似た匂いになってきている気がする。どうやら最初から、徐々に徐々にそうなっていたらしく、気づいたのはかなり後になってからだ。
そんな校舎を歩く、華菜。
暗く、外から明かりが差しこむ廊下。砂のようなノイズ。すます耳。
ノイズの向こうにセンサーのチャイムが鳴れば、それを聞き取ろうと、息をひそめる。今までは聞こえるたびに距離をとっていた。だが今日は違う。見つからないように接近して、確認しなければならないのだ。
そして、可能ならば、閉じ込める。
見つからずに跡をつけることができて、その間にどこかの部屋に入ってくれれば、そっと出入り口を閉めてストッパーを挟めば終わるのだが、そんな都合のいい状態になってくれるだろうか。
最悪、自分をおとりにして、どうにかしなければいけない。
そう思いながら耳をすまし、気配を探りながら、しばらく感じたことのなかった強い緊張に胸をしめつけられて、呼吸が細く苦しくなった。
「………………」
とにかくまずは、ホールに行く。
行って、恵里耶や海深や陸久と話をして、三人を理科室まで送り出し、後の心配事をなくして、心を落ち着けて冷静になってから、〝化け物〟の確認に向かう。
校舎内を自由にうろついている〝化け物〟に、自分から近づく。
そんなことをするのは初めてだ。今までは逃げるだけだった。怖くないはずがないし、不安でないはずがないし、緊張しないはずがない。だが、他の子には任せられなかった。いちばん足が速くて、いちばん勇気がある、自分がやるしかない。どう考えても自分がいちばん無事にすむ確率が高いのに、そうしない理由は一つもなかった。
これ以上『かかり』のみんなが犠牲になることに、華菜は耐えられなかった。
死にたくないのに、死にたくなどなかったのに、死ぬのが怖いのに、死が目前にやってきてしまった人間の嘆きほど周囲の人間の心を削り取る毒はない。華菜は人の死に慣れているわけではない。人の死を知っているだけだ。その時に際してどうすればいいのかを知っているだけだ。そしてたくさん知っているから、死の覚悟がない人間の死が、本人と周囲にどのような毒をまき散らすかを、よく知っていた。
見たくないのだ。できるなら。
だから決めていた。危険が目に見えている『しごと』をしなければならなくなったら、自分が率先して手を挙げようと。
状況がしばらく静かだったので、使う機会がなかった覚悟。
その時がきた。手を挙げた。理由は十分だった。湧汰を守る。春人の心を守る。名前も知らない小さい子も。ホールでの騒ぎを見て実感した。上級生のお姉さんとして、小さい子が怪我をするのを、ましてや死ぬかもしれないのを、自分にできることがあるのに、見過ごすことなど華菜にはできなかった。
怖くないわけはない。怖くないと言えたら格好よかったけれど、無理だった。
手を挙げた時も内心では緊張で震えていたし、金曜日が近づくにつれて不安はどんどん大きくなり、今日にいたっては夜になってから『ほうかご』の時間を待つまでのあいだ、ジェットコースターの順番を待っている時のように、心臓がバクバク鳴るのが止まらなかった。
今もだ。こうして『ほうかご』を歩いている、今も。
自覚している。これから危険で恐ろしい『しごと』をしなければいけないのだ。心臓が動きすぎて気を失いそうだ。
手も膝も肺も震えていて、みんなの前でこれを止められるだろうかと、そんなことばかり考えていた。親指と人差し指で小さなライトを持っている、その左手を強く握りしめ、尖らせた薬指の爪を手のひらに突き立てて落ち着こうとしたが、爪が刺さる痛みが、明らかに普段より鈍かった。
「……っ」
息が上がる。
早足で歩く。
早くみんなに会いたかった。みんなと話をして、少しでも落ち着きたかった。
話して、笑って、空元気を出して。それでもらえる勇気がほしかった。少しでも。死地に向かうための、勇気が。
だがその時、向かう先の教室にじわっと明かりがついて、
目の前の教室から、春人の顔をした人形の頭が現れた。
笑顔。
硝子の目。
それらの貼りついた頭から、直接伸びた三本の腕。
要所でもなんでもない場所に、センサーはない。なんの音も兆候もなかった。そして、なんの気配もなかった。
「…………………………!!」
一瞬にして、足の先から頭まで、悪寒が駆け上がった。
破裂しそうなほど心臓が跳ねた。息が止まった。心が凍った。時間が止まった。
その目の前で、
ぬ、
と人形頭が動く。
目と鼻の先で、子供の頭の大きさをした人形の頭部が、蛇の頭のように傾げられて、こちらを認め、そして三本の腕が、こちらに向けて這い出した。
瞬間、
「わ
あ
あ
あ あ──────!!」