叫んだ。
逃げ出した。
すぐさま背を向けて、後ろへと走って逃げた。今は、今は耐えられなかった。何の準備もできていなかった。叩きつけるような靴の音。自分の足音。だがその足音に、自分の背後に、明らかに追いすがってくる、気配と、肉の足音。
ぺたぺたぺたぺたぺた……!
「────────────────っ!!」
逃げる。
逃げる。
息もできないまま逃げる。
怖い。怖い。苦しい。頭の中が真っ白になる。揺れる視界。廊下の闇と窓の明かりが、心をかき乱すように目まぐるしく入れ替わる。
追ってくる足音。
逃げなきゃ!
逃げなきゃ!
逃げ……
ずっ、
と瞬間、足がすべった。
砂埃で。転んだ。体が投げ出された。叩きつけられた。
「!!」
衝撃。痛み。涙。しかし痛がっている余裕などなかった。迫る足音。絶望。それでも抗うために、砂だらけの床にひじをついて痛みに耐えて身を起こし、体をひねって、目を見開いて、必死に顔を上げた。
「えっ」
華菜はそこに、見てはならないものを見た。
開いていたのだ。自分の真横にある戸が全開に開いていた。
そして教室の中に、明かりが灯っていた。
照らされた教室の中は、真っ赤だった。
教室の中が、壁が、床が、机と椅子までもが赤茶けた殴り書きの文字で埋めつくされ、それが冷たい照明に赤く赤く照らされていた。
開いているはずのない入り口が開いていた。
ここは────『赤いクレヨン』の部屋。
華菜が担当し、もはや顧みたことのない、開けたことのない『無名不思議』の部屋。それが誰も触れていないのに開いていた。誰も開けていないのに。まるで、地獄への門かなにかのように、口を開けていた。
呆然とした。
一瞬の呆然。だがそれは致命的だった。
ぺたぺたぺたっ!
人形頭の異形が追いついた。華菜に向かって手を伸ばした。
つかみかかった。無感情に見つめる硝子の目。そして、春人をバラバラに引きちぎったのと同じものであろう細く異様な化け物の手が、まだ立ち上がれていない華菜に、もう逃げられない華菜の目前に、大きく迫った。
「ひっ────!!」
華菜は恐怖に身を縮めた。
恐怖し、目を見開き、そして反射的に、最後の抵抗で、転んでもなお握りしめていたバールを、全身で思い切り、異形の頭に向けて真横に振り抜いた。
ごっ!
と重量と遠心力の乗ったバールの先端が、人形の側頭部に叩きつけられた。激しい手応えがして手が痛み、追いすがって勢いのついた明らかにバランスの悪い人形頭が、その衝撃で吹き飛んで、華菜から逸れて、真横の教室へと倒れこんだ。
瞬間、
ばしん!!
と耳が割れそうな激しい音を立てて、教室の戸が閉まった。
あの『赤いクレヨン』の教室が、中に入った春人の異形を吞みこんで、勝手に入り口を閉じたのだった。
「!?」
目を見開いた。何が起こったのか分からなかった。
だが理解する暇もなく、
ばん!!
と向こう側からすさまじい力で戸を叩かれ、その恐ろしい音と衝撃への恐怖に、華菜は耐えられず、思わず強く身を縮めた。
「──────────っ!!」
ばん!! ばん!! ばん!! ばん!! ばんっ!!
何度も、何度も、今にも破られそうなほど、叩かれる戸。恐怖で動けない華菜。座り込んでバールを抱えて身をすくませる華菜の前で、大きな音を立てて、ゆれ、振動し、たわむ、教室の戸。
ばしっ!! と戸に嵌まった窓が激しく叩かれ、ガラスに血の手形がついた。
「ひっ!」
しかし、それでもガラスが割れることはなく、戸も破られず、戸を叩く音はだんだんと遠くなって、まただんだんと回数を減らし、やがて聞こえなくなって、気がつくと周囲に静寂が広がっていた。
シャ──────────────ッ、
という、スピーカーから漏れる、砂を流すようなノイズだけが広がっていた。
それに気がついて、華菜が戸惑いながら顔を上げると、突然、
がらっ!
と音を立てて、閉じていた目の前の戸が開いた。
「……っ!?」
もはや声も出ないほど驚く華菜。再び身を縮めたが、中からあの人形頭の異形が出てくることはなかった。それどころか異形の姿はなかった。入り口の向こうには、赤の強い褐色をした泥のようなもので、『たすけて』『だして』と無数に殴り書きされた、何もいない空っぽの教室が見えているだけだった。
春人の顔をした人形頭の異形は、部屋から姿を消していた。
何が起こったのか、理解できなかった。
自分が助かったのかもしれないという安堵さえ、その確信さえ、なかった。
華菜は、震える手で異形を殴りつけたバールを握りしめ、ただ廊下に座りこんで、またどこかから異形が現れるのではないかと恐れながら、突然その正体を現した、『赤いクレヨン』の部屋を見つめ続けた。
………………
†
春人の顔をした人形頭の異形は。
それから二度と、華菜の前に現れることはなかった。
そして────それだけではなかった。『ほうかご』を終え、週末が明けた、月曜日。いつもそうするように登校して、『ほうかご』について報告しあうためホールの片隅に集まったみんなの中に春人の姿はなく。
「……越智くん? って、誰だ?」
それだけではなく、湧汰の頭の中からも────そしてこの世界からも、再びその生きていた証拠が、存在が、完全に消えてなくなっていたのだった。