「たしか哲学の思考実験。ある男に雷が当たって死んで、近くにあった沼に落ちた。そしたら謎の化学反応で男が完全に複製されて、記憶も完璧に複製されてるから複製された方は何も気づかずに沼から出て、家に帰って、元の男の生活を始めた。雷が当たった男の死体は沼の底に沈んでる。この複製人間は、元の男と言っていいだろうか? みたいな話」
「……答えは?」
「知らないよ。哲学の思考実験なんだから。あんたはどう思いますか? みたいな設問じゃねえの?」
結論は放り出す由加志。納得いかない表情の啓。
「モヤモヤする」
「哲学なんだからそれでいいんじゃねえの? 知らねえけど。まあとにかく、砂の像になって死んだのに、こっちでは生きてるってのを聞いて、それが思い浮かんだってこと。話してたらちょっと違う気がしてきたけど」
「……」
「とりあえず、おれが言いたいのは────生き返ったそいつは本物なのか? ってこと」
「…………会って話した感じでは普通だった」
「だからスワンプマンは記憶も体も完全なコピーなんだってば。それに体が化け物だったとしても、医者でも科学者でもない中学生のおれらには、そいつらの検査とかができるわけじゃないから、人間じゃなかったとしても調べようがないんだよ。何十年単位の経過の調査ができるかも怪しいしな。お手上げだよお手上げ。たぶん『太郎さん』だって、〝死にもどり〟がその後にどうなるかなんて知らねえよ」
あーあ、とため息をついて、由加志は座椅子の上で背伸びをする。
「どっちにしろ、もうその二人はゲームオーバーだ」
動かない結論。
「どんな悪影響があるかも不明。終わり終わり。最初に『学校わらし』が決まってたから、あの列に入れられなかったってだけで、マシってもん……っ」
そして、つい勢いでそう言ったところで、対面の啓にじろりと睨まれて、言葉を切った。
数秒の間のあと、引きつった顔で言う。
「……悪かった」
「…………」
無言で視線を外す啓。失言だ。啓は、今も『学校わらし』の列が見えないかと、神名小学校の前を通るたび、指で窓を作っているのだ。
そこには菊がいる。
もう一度その姿を見ることができないかと、今でも完全にあきらめることができずに、時が経つごとに『無駄』の二文字が確実になってゆくのを自覚しながら、それでもまだ窓をのぞくことを繰り返している。
もう一度。できればせめて、もう一度だけでも、と。
菊が啓のために自ら加わった────そして今は亡き惺が、その一員になることを望みながら果たすことができなかった、あの『ほうかご』で非業の死をとげた子供たちによる人間の鎖を、もう一度、この目で、と。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
エアコンの音と、ノートパソコンのファンの音ばかりが聞こえる沈黙が、少し続く。
部屋の主である由加志が、身じろぎもできずに居心地悪そうにしている。そんな中、やがて啓が、沈黙のあと、小さく口を開く。
「……まあ、少しでも無事を祈ることしか、僕らにはできない」
「そ、そうだな」
ほっ、と息をついて、由加志が答えた。話題が変わった。許された。そして緊張が解けた由加志は、ふと別のことを思い立って、啓に訊ねた。
「あ、そうだ、お前、今回も向こうの学校の『無名不思議』、絵に描いて渡したのか?」
「ああ」
啓は頷いた。
「空想を描くのは苦手だから、また写真でコラージュを作って描いた。『かかり』をきっかけに始めたやり方だけど、割と面白い」
「ふぅん」
「アルチンボルドも、もしかしたら、こんなふうに組み合わせたモデルを作って描いたのかもな、とか」
「アル……何?」
「ジュゼッペ・アルチンボルド。果物とか野菜とかを組み合わせて人間にした肖像画が有名な画家」
「あー……見たことある気がする。ネットで」
ちょいブキミなやつな、と納得する由加志。
そして言った。
「まあ、なんだ、よくやるよ」
顔を歪めて、心の底から嫌そうに。
「いくら『卒業』したからってさ……もしかしたら、『記録』した扱いになって、また引き受けちまうかもしれないのに」
由加志のその言葉に、啓は視線を外した。
「もちろん。そのためにやってる」
啓は答えた。
そして啓は、かたわらに置いた、中にいくつもの『化け物』が描かれている自分のスケッチブックに目を向けて、その表紙をしばしのあいだ、まるで中に描かれているものを透かし見ているかのように、じっと黙って見つめた。