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「えっ?」
「君ら二人は描く絵が違うな、って話をした」
耳を疑って聞き返した陸久に、公園の芝に座っている二人の背後に立って、手元のスケッチブックを見下ろした啓は、目深にかぶったキャップのつばの下で、陰になった目をわずかに細めて言った。
陸久は驚いた。信じられなかった。今までそんなことを言った人は、ただの一人としていなかったからだ。
「ど、どこが?」
「そんなに違う……?」
なかば呆然となる陸久と、きょとん、と聞き返す海深。いまここにある二人の絵を見て『違う』と言い切る人は、今まで陸久が関わってきた人のなかには絶対にいない。啓の絵を見た後だからなおさら思うが、陸久がどれだけ違うと思っていても、あくまで普通の子供レベルの差でしかなくて、しかも海深は、たぶん本人も意識せずに陸久の絵を真似て描いているので、全く違うとはとても言い切れなかったからだ。
なのに、
「違う。こっちの絵は自分で考えて描いてる」
啓はきっぱりと言い切った。言ったのはそれだけで、それ以上の多くは語らなかったが、それは陸久にとっては心の中の霧が晴れるような、いや、それどころか海が割れるような思いの一言だった。
「……!」
気づいてくれる人がいた。陸久と海深の絵を────いや、陸久と海深を、違うと言ってくれる人が。絵本のことがあって以来、好きなはずのお絵描きをしていても、心の端っこに何かが引っかかって、以前のように心の底から楽しむことができなかった自分が、救われた思いになった。
本当は、絵を教えてもらうことになったのも、少し憂鬱だったのだ。
他人に自分の、いや、自分たちの絵を見られることが、陸久は嫌になっていたのだ。何年もずっと心の隅を占めていた重石が、このとき消えた気がした。心が軽くなった。啓は、そのあとの指導でも、陸久と海深へのアドバイスを同じにはしなかった。ほぼ別物と言っていいカリキュラムを指示した。そのことが陸久はひどく嬉しかった。
今までのことが許せると思った。
いや、違う。今までできるだけ、ちゃんと見ないようにしてきたモヤモヤを、やっと直視することができたのだ。
直視した上で、許せる気持ちになった。
もういい、と。終わってしまったこと。今まで見たくなくて、見ないようにして、もう取り返しのつかないこと。ずっと引っかかっていたこと。それらを今なら過去のものにして、先に進めるのではないかという気がしたのだ。
陸久にとって、毎週の教室は、大事な楽しみになった。
絵の楽しみが、陸久のなかに戻ってきたのだ。
それが憂鬱な『かかりのしごと』のための練習だったとしても、陸久にとってはそれで構わなかった。海深にとってはやはり『かかりのしごと』にすぎない、あまり気乗りのしない課外活動のようだったが、それでいい、と陸久は思った。いや、そのほうがよかった。そうでなくてはいけなかった。
絵が本当に好きなのは────陸久なのだから。
絵が好きだ。だから、その気持ちを取り戻したから、直視する勇気がでた。直視する。あの模型を、過去のことを、自分の気持ちを。なぜなら描くということは、直視するということそのものなのだから。
それから、陸久が『ほうかご』に向かう気持ちは、変わった。
怖くなくなったわけじゃない。もちろん変わらずに怖い。でも今までとは違って、見る勇気を振りしぼることができた。不気味で異常な『骨格模型』を、見る。それから、それを怖いと思う、『自分の心』を直視する。
描くために。
模型を。
恐怖を。
絵のモデルだと思えば、ぎりぎりで耐えられた。絵に対する気持ちが弱い海深は耐えられないので、そんな海深の手を引いて、『ほうかご』に向かった。
金曜日の、十二時十二分十二秒。
カァ────────ン、
コ────────────ン!
激しいノイズ混じりの、頭が痛くなるチャイムの音を待って、『ほうかご』につながった部屋のドアを通り抜ける。
めまいがして、暗い『ほうかご』の廊下に、窓の外から差しこむ明かりに照らされて、陸久たちが並んで立っている。首にはリボン。そしてそこから見える、上部に『理科室』のプレートがついた、うっすらと薬品っぽい臭いのする空っぽの部屋のなかに、そこだけ天井に灯っている灯りに照らされて、模型が二体、並んで立っている。
シャ──────────────────ッ……
とスピーカーから空気にもれて、耳の奥と神経に触れる、砂のような細かいノイズ。
そのノイズと、どことなく鈍い照明のなかに立っている二体の理科室の模型は、最初を思い返すと比べものにならないくらい、不気味さが増していた。
台と支柱に、針金によって物々しく縛りつけられた模型は、それぞれ増殖する血管によっていまや上半身をびっしりと覆われていた。細くて大量の血管はまさに植物の根のようで、それらは人体模型の剝き出しになった脳や眼球の裏側から、また骨格模型の頭蓋骨の内側から発生し、表面を覆いつくして、下半身へと向けてべろりと赤く垂れ下がっていた。
覆った上半身から下半身の表面にむけて血管をぶら下げて、それがまるで、重度の火傷で上半身全体の皮膚が剝がれて垂れ下がったかのようになっている、人体模型。
そしてその隣の、いまや胸腔の内部が血管で埋めつくされ、その肋骨の下から血管が垂れていて、それがまるで上半身の皮を剝いだあとでその部分から切断し、断面から胸の内容物がこぼれているかのようになっている骨格模型。
異常な変化の進んだこの二体は、一見すると、正視できないほどの凄惨な拷問が行われた後の、死体が晒されているように見えた。
残虐に損壊された死体に見えていた。だが、実態は逆だ。
この二体は削られたのではなく、その肉の組織をだんだんと殖やしている最中だ。陸久の目には、だんだんと人間になろうとしているように見えていた。本物の人間に。この血管がこのまま全身に広がったとき、いったい何が起こるのか、どうなってしまうのか、陸久と海深はこの二体から目をそらしながら、同時に、来るであろう未来を恐れていた。
だが────それも、過去のものになる。
啓の助言と『しおり』をもらってからの、新しい体制。『ほうかご』に立った陸久は、まずホールに行って、みんなと顔を合わせ、理科室について来てもらう。
海深は今までと同じように怯えているが、陸久はもう違う。いや、怖いのは違わないが、今の陸久は前を向いている。そんな陸久が前に出るので、そしてみんなから協力という名の善意の圧力を受けるので、海深もしかたなく理科室に入る。双子が二人、理科室に入って模型の前に並ぶ。
そうして二人は、今までとは違う、本当の『かかりのしごと』を始めるのだ。
自分の目で見てする、本当の『記録』を。
そして描くのだ。『記録』のための〝絵〟を。
怖くて不気味でグロテスクなそれを、陸久は必死で直視し、海深はそれができずにいる。
「海深、ちゃんと見ないと描けないよ……?」
「怖いよ……陸久は怖くないの?」
「怖いよ。でも、このままだと、もっと怖いことになるし、みんなにも迷惑かけっぱなしになるんだよ?」
「うう……」
傍目には、二人、支え合っているように見えると思う。
同じ顔をしているから。でも、必ず前に立っているのは陸久だ。陸久が海深をかばい、前へと引っ張っている。そうしないと、海深はいずれ手遅れになるからだ。
助けないといけなかった。
今まで陸久が奪われていて、しかし啓との出逢いによって、かろうじて取り戻すことができた、自己への肯定がそうさせた。