二人はきょうだいだ。たしかに陸久の中にわだかまりはあった。
でも、きょうだいなのだ。そのわだかまりを克服しようとしている今、克服して前に進もうとしている今、立ちすくむもう一人を放っておくことは、陸久にはできなかったし、考えられなかった。
「足元から見るようにすればいいよ。ゆっくり。ゆっくり」
「うう……」
「それでね、赤いのが見えたら、そこで止めて……その場所を『記録』すればいいよ。次に同じことをしたら、どれくらい血管が成長してるか分かるから。いつかは慣れてちゃんと見ないといけないと思うけど、今は、それでいいと思う。この模型でいちばん『記録』しなきゃいけないところって、たぶんその血管のとこだから」
「うううう……」
寄りそって、アドバイスをして、少しでも、海深にも『記録』させた。
ほかでもない双子の陸久が言うので、それにみんなにも見守られているので、海深もなんとか頑張って、陸久の言うとおりにする。指示している当の陸久も、今までずっと海深と同じように『模型』を怖がっていたので、どこまでなら我慢できるかとか、どんなふうに段階を踏めばいいかとかが、手に取るように分かったので、アドバイスが的確にできた。
そして陸久も、自分の目と手で、『記録』をした。
啓の用意した『日誌』のフォーマットに記入して、啓に習った絵を描いた。初めてこの異常な存在に、本当に向き合って。
最初はただただ必死で、恐怖に精神を焼かれながら、向き合って、見て、描いた。
必死で海深のサポートもしながら、少しでも平気なふりをして、震える手を抑えて、初めての『記録』を作った。
啓のような絵は描けない。だから図にする。
自分にできるかぎりの写実的な絵を描いて、足りないところを文字で補う。どうなっているのかを、どう見えるのかを、どう感じるのかを、記入する。
自分が持っている技術と工夫を、全て詰めこんで。それでも震える手で、海深の様子も気にしながら描く絵は、海深が描いたものと大して違いがないように見える出来になった。思う通りに描けなくて、陸久は歯嚙みした。
だが────それでも、この新しい試みの効果は、歴然だった。
三回めくらいで確実になった。『記録』していた血管の広がってゆく速度が、明らかに遅くなったのだ。
水栽培した球根の根のように肋骨の下から垂れ下がっている血管の、伸びる速度が、たしかに鈍っていた。どれくらい伸びているか『記録』していたおかげで、その効果のほどが正確に明らかになったのだ。
それが分かった時、みんなで、わっ、と歓声を上げて喜んだ。
華菜は全身で、恵里耶は控えめに、自分も、海深も、目に涙を浮かべて喜んだ。久しぶりに見えた希望だった。
だが陸久にとっていちばん嬉しかったのは、海深の担当する人体模型のそれよりも、自分が担当する骨格模型の方が、より強く血管の成長が抑えられていたことだった。陸久にはそれが何より嬉しかった。何より。そして、密かに。
自分だけが助かりたいわけじゃない。でも、自分が先行していることが嬉しかった。
自分だけの〝好き〟が、〝努力〟が、海深と分け合うことなく認められたと思えて、それが嬉しかったのだ。陸久は『かかり』になってから、いや、絵本の事件があってから、初めて前を向くことができた。目標ができた。まずは陸久が、それから海深が、『記録』を完成に近づけて、この地獄から抜け出すのだ。
そして、そうすることによって華菜と恵里耶を、自分たちの世話から解放する。
そうしなければ、いつか行き詰まると気づいていた。もっとずっと早くから。目の前の恐怖に負けて、見ないようにしていただけで。
やっと直視した。このまま、みんなで沈んでゆくわけにはいかない。
陸久が頑張れば、みんな無事に終わる可能性が高まるのだ。
「……そうだ、私が」
陸久の意識は変わった。
取り戻した自己肯定感と、それによって見えた責任。だから、これまで以上に熱心に啓から絵を教わって、少しでも絵の練習の足しにするため、ずっと遠ざかっていた、普段の遊びとしてのお絵描きに復帰して、自分の手に経験を積ませた。
今までみんなに助けてもらった。
今度は自分が頑張る番だ。
私にはそれができるから。
できるようになったから。
きっと。
3
陸久が先頭になって、『無名不思議』を抑えこむ日々が始まった。
みんなを引っ張っているのは華菜で、誰も陸久が先頭だとは思っていない。でも、それでいいと思っていた。今までなら自分が頑張っていることの評価が埋もれてしまうことに耐えられなかったと思うが、今の陸久は平気だった。
実際に『無名不思議』を抑えているのは陸久で、結果もそのようになっている。
それを自分が知っている。それに何より、啓は間違いなくそれを察していて、それだけで今の陸久には十分だった。
たった一人、啓が見てくれた。それだけでよかった。
諦めた自分を見つけてくれた。その一人がいるだけで世界が変わった。
絵本の事件から、ずっと灰色になっていた心の一部に、色がついていた。わだかまりがとけて、心の中に絵が戻ってきた。啓が戻してくれたのだ。
「先生」
陸久は、啓のことをそう呼んで、心の中で啓に感謝し、信頼し、なついた。
ただ、海深も聞いている前でそんな主張をするつもりはなかったので、自分のそんな事情も好意も口にはしなかった。ただとにかく生徒として、熱心に、積極的に教えを受けた。
啓の方も当然、そんな陸久の思いには気づくことなく、あの妙に根は育ちが良くて親身なのにぶっきらぼうな態度で、みんなと変わらずに陸久と接した。だが、描き上がる絵を見て口にするアドバイスと課題が陸久に対してだけ明らかに高度になっていて、それだけで陸久は満足だった。
むしろそれこそが、陸久を満たした。
それこそがむしろ、陸久の描く絵が陸久のものだけなのだということを────陸久が海深とは違う人間なのだということを、啓がはっきり見てくれているのだという、その証明に他ならなかったからだ。
陸久は自分の誇りを取り戻した。それと引き換えなら、『かかりのしごと』は困難で恐ろしくても、耐えられた。そして、そうやって挑んだ『かかりのしごと』は目に見える効果をあげて、その成果は海深にも、ポジティブな影響をもたらした。
成果と手応えと喜びの中で、怯えるばかりだった海深に、ささやかな自信が育ったのだ。
今までより少しだけ強くなった。少しだけ『記録』に前向きになり、恐れながらも模型に目を向けるようになり、絵も上達して、最初とは比べ物にならない情報量の『記録』を作ることができるようになった。
そうなってみて、ようやく海深は言った。
「……ねえ、陸久。私らが見ないで書いてたのって、やっぱり、ちゃんとした『記録』じゃなかったんだね」
と。
「うん、そうだったんだと思うよ……」
「全然違うもん。今ならわかるよ。あの時は必死のつもりだったけど、私ら、みんなに甘えてたんだね……」
「うん、甘えてた、ずっと」
「謝らないと」
「そうだね……それに、次は、私らが頑張らないとね」
海深も、ようやく少し現実を直視した。現実の状況を。現実の自分を。それから現実の恐怖を。やっと海深は、その前では上げることもできなかった目を『動く人体模型』に、自分から向けることができるようになった。
全てが良い方向に回り始めた。