もう取り返しがつかないことも多いけれども、ようやく、本当はそうあるべきだった『かかり』の形になりはじめた気がした。陸久も海深も、もう自分たちの『かかりのしごと』を、自分たちだけで終わらせられるようになりつつあった。その準備はもうしてもらっていた。華菜たちが長く付きそってくれた経験と、春人たちが設置してくれた仕掛けやガジェットが、陸久たちを助けてくれていた。
もう過去のわだかまりはなかった。許して過去のものにできた。
陸久は日々、あらためて新しい絵を描きはじめた。もう、海深に描き加えさせることはしなかったけれども。
二人は違う道を歩みはじめていた。それが実感できた。
金曜日ではない日の夜、ベッドの中で、部屋を仕切るカーテン越しに、話をした。
「……私ら、言うほどそっくりじゃないよね?」
「うんまあ、みんなが言うほどじゃないよね……」
「志場くんはあんなこと言ってたけど、別に双子だって言っても、自分がもう一人いる、なんて感じじゃないしね」
「さすがにね、そこまでじゃないよね。昔はもう少し、曖昧だった気はするけど……」
「でも今は、絶対違うよ」
「まあ、もう違う人間だよね……」
「小学校でクラス分かれちゃったあたりから、だいぶ違う人間になった気がする」
「たしかにそうかも。友達もおんなじじゃないし……」
「そうでしょ」
そして互いの友達の話をして、同じタイミングで、同じ声で笑う。ひとしきり笑って、それから、しみじみと言う。
「……やっぱり、私と陸久はおんなじじゃないね」
「違うよ。やっぱり変わるよ。趣味とか興味とか」
「だよね。昔はそんなでもなかったけど、今は陸久の方が絵とかぜんぜん上手だし」
「意外。そんなふうに思ってないと思ってた」
「わかるよ。さすがに。私、陸久とくらべたら、絵が好きなわけじゃぜんぜんないし」
「そっか」
「どっちかって言ったら私、『かかり』のせいで、絵、嫌いになりかけてるもん」
「そっか……」
ふふっ、と陸久は、その言いようがおかしくて小さく笑う。笑うかたわら、心の中で安心した。絵は『双子』のものではなく自分だけのものなのだと、そして、海深もそう思っているのだと、確認できたのだ。
それが一番大事だった。その安心が、一番ほしかったのだ。
これから先は────絵本が『双子』の作品として賞を獲ったと聞かされた────あの時のような思いをすることは、もうないに違いないと思えた。
海深は、例の絵本のことは、間違いなく合作だったと認識している。
でも、もういい。許した。今の海深は、そんな勘違いはもう起こさないだろう。
私の描いた絵は、もう無造作に奪われたりしない。それさえ保証されているなら、陸久はまた前に進めた。
これからは、私がやる。
自分の『無名不思議』を絵で『記録』して、おとなしくさせて、みんなのお荷物だった状態から抜け出して、海深を、みんなを助けて、活躍するのだ。
「だいじょうぶ。私の〝絵〟は────効いてる」
その事実と、確信。
その誇りと、喜び。
それらを胸に、陸久は毎週『かかりのしごと』と対峙した。観察し、『日誌』に描き、絵に描いて、それ以外にも毎日のように絵を描いて、研鑽を積みかさねていった。
啓からもらったスケッチブックを、自分の絵で埋めていった。
描くのは自分の心の中にあるもの。空想。感情。色彩。物語。絵にそういうものを投影するのが『記録』の絵には必要だと、啓が言っていたので、その練習として描いたのだ。これは未来への予行演習でもあった。陸久はいずれ、『動く骨格模型』を『日誌』の図だけではなく、ちゃんとした絵にするつもりだったのだ。
啓がそうしたから、それで『記録』に成功したから。
きっと、その方が効果があるから。
そうして描いたのは、あの絵本になった以前の絵を取り戻したような、明るくて柔らかい空想の絵だった。水彩の空の中を、自分の心を反映した、空想の鳥や魚や動物や植物が飛んでいる絵。空と海がつながって、船と飛行機が、たがいを行き来する絵。空にある窓と扉から太陽と月が出入りして、朝と夜が空で入り混じる絵。それらは『ほうかご』とは全く逆の明るい雰囲気の絵だったが、しかしそれらは、たしかに間違いなく、暗くて恐ろしい、あの『ほうかご』と『無名不思議』を描くための予行演習だった。
学校用の絵の具が、あっという間になくなった。
なので絵本の賞の副賞でもらったけれども、一度も使うことなく引き出しの奥に押しこんでいた、高級な絵の具のセットを出した。
毎晩、鏡写しの配置になった部屋には、それぞれの勉強机で、宿題をしたり漫画を読んだり動画を見たりして過ごす海深と、ただひたすら絵を描く陸久という光景があった。いつか来るであろう〝その日〟に向けて、陸久は取り戻した誇りと、啓の教えを胸に、ひたすらの研鑽を続けた。
だんだんと緻密になってゆく、陸久の『記録』。
それにともなって、だんだんと異常が止まりつつある、『動く骨格模型』。
全ては順調だった。そう思えていたし、実際そうだった。
だが、そんな陸久の足をすくう悪魔の手は────『ほうかご』からではない、まったく別の場所から伸ばされたのだった。
「えっ?」
その日、学校から帰ると、スケッチブックが消えていた。
自分の部屋の、自分の机の前で、呆然と。普段置いている机の上に、絵を描きためたスケッチブックがなくて、陸久は気づいた瞬間に頭が真っ白になって、帰宅したそのままの姿で立ちすくんだ。
「えっ……な、なんで……!?」
「えっ、なに? どうかした?」
うろたえる陸久に、驚いて訊ねる海深。そして事情を聴いて察した海深と二人で、慌てて部屋を捜したが、スケッチブックは影も形も見当たらなかった。
だがスケッチブックと犯人は、ほどなくして、あっさりと見つかる。
部屋を海深に捜してもらい、陸久が階下のお母さんに心当たりはないか訊こうと思って、ばたばたとリビングに駆けこんだところ、テーブルの上にまさに捜していたスケッチブックが置いてあり、そして椅子に座って携帯を持ったお母さんがニコニコの笑顔で入ってきた陸久を振り返り、言ったのだ。
「あんたたち、こんなの描いてたんだ? すごいじゃん、言ってくれればいいのに」
そして、携帯の画面を陸久に向けた。
「お母さん、SNSにアップしたげたから。みんなに見てもらおうと思って。うちの双子ちゃんが描きました、って。そしたらね、すっごいバズって、何十万人も見てくれて、見て、みんな褒めてくれてるよ。『双子でこんなに上手に描くの、すごいですね』って」
「………………っ!?」
そのあと何を言ったか、憶えていない。
たぶん、何も言わなかった。ただ、さーっ、と目の前が暗くなって、手が指の先から冷たくなるような、血の気のひく感覚を憶えている。
えっ、なんで。
と、そんなことを、頭の中で思っていた。
他に何も思い浮かばなかったし、何も考えられなかった。気づくと翌朝になっていた。あまりのショックに記憶がなかった。
理解するのに一晩かかった。
また陸久のものが────陸久だけのものが、また、奪われたのだ。
お母さんに自覚はない。お母さんは間違いなく、あのスケッチブックの絵を、陸久と海深の合作だと疑いもせず思いこんでいる。絵本と同じように。絵本の賞を獲った時、一番喜んでいたのはお母さんで、それ以降ぱったりと絵を描かなくなった陸久に、『描かないの?』と今までも何度か探りを入れたり催促したりしてきた。
勝手に部屋に入って、スケッチブックを見つけて、きっとお母さんは思ったのだ。
あの時の、うちの自慢の双子ちゃんが、帰ってきた、と。