上巻

一話 空とワンダー ⑤

 細い腕が、その細さに見合わない強かな腕力で、私のお腹をガッチリと掴んでいた。

 何者かに担ぎ上げられている。

 担ぎ上げられた状態で空を飛んでいる。


「わ――ッ」


 悲鳴? そりゃ、あげるでしょ普通。

 眼下に見えるのは傾き始めている観覧車の支柱。私が乗っていたと思しきゴンドラは、隣ビルの壁面にめり込み、砂埃をあげていた。

 まもなく観覧車は、基部から倒壊を始める。

 まさしくトンデモない光景だった。

 建物のへりに設置された観覧車は根本から折れ、ハローズの建物を壁伝いに落ちていったのだ。

 三十メートル近い高さから落下し、轟音と煙を巻き上げる観覧車。

 それとほとんど同じタイミングで、私を担ぎ上げた人間は、斜向はすむかいのビルの屋上へと着地し、足元へと降ろした。

 ようやく私は、彼の全体像を目撃する。

 黒ベースに蛍光色の緑をあしらったケープを纏い、胸元に三日月の首飾りを輝かせる。落ち着いた顔つきと優しげなまなじり。それと対照的な、どこか暗さのある面影が同居する同い年くらいのその男の子は、開口一番にこう告げた。


「お前、なんでこんなところにいる?」


 その表情。

 “まじで意味がわからない”って顔だった。

 奇遇だね。

 私も“まじで意味がわからない”って顔、今してると思うよ。


「なんでって何? 私、普通に観覧車に乗っただけだけど!?」


 男の子はため息を押し殺すように頭を抱えると、


「そうじゃない。なんでクエスト中に僕以外の人間が……って、あぁ、ったく……なんて説明すりゃいいんだ」


 じれったそうに、がりがりと頭を掻いた。

 その、お世辞にも筋肉質とは言えない、細い腕。

 やっぱり、どこからどう見ても、私を抱えたままゴンドラから隣のビルへ飛び移れるほどの肉体派という感じではない。

 ってかさっきのは何?

 なんで飛べたの?

 あなたは誰?

 年はいくつ?

 頭から溢れ出しそうになるクエスチョン。けれど男の子の切迫した表情が、私から質問のチャンスを奪った。


「とにかくお前は“プレイヤー”じゃないんだな? ったく、今回は出現場所もズレるし、変なヤツもいるし、バグでも起こってるのか。……いいか、やつらは、クエスト中は見境なく人を襲う。今はこれ以上説明してる余裕がないし、する気もない。ただ、これは僕一人の戦いだ」


 まんじりと私を見据える男の子の、その背後。

 ビルにめり込んだひしゃげたゴンドラの中から、ぬっと顔をだす魚のワンダー。その一匹だけではなかった。

 散り散りになった魚たちが再び一ヶ所に集中し始めていた。

 群れは渦を巻くように泳ぎ、ぐんぐん回転の速度を上げる。まるで次の攻撃のために力を溜めているみたいに。


「だからおい、お前――舌、噛むなよ」


 その一瞬で男の子は覚悟を決めたように頷き、こちらに駆け寄ってくる。

 そして問答無用で私の膝と背中に手を回し抱え上げ、


「えっ、ちょっとちょっとちょっとちょ」


 そのまま建物のふちめがけて走り始めた。

 走る男。

 青い空。

 飛ぶ魚。

 叫ぶ私。

 マジで、どうかしてるって。


「ちょっとおおおおお――……ッ!」


 男の子はそして、虚空めがけて飛び出した。

 グッと、ジェットコースターに乗った時みたいに、内臓を浮遊感が襲った。

 胃の中身じゃなくて叫び声しか吐かなかった私は、間違いなくもっと褒められていい。

 その上、何かが変だった。そう。滞空時間。

 飛び上がった体が、一向に落ちていかないのだ。


「飛んでる!?」

「飛んでない」


 返ってきたのは即座の否定。

 男の子の漆黒のケープが、暴風にはためいている。


「跳んだだけだ。これは飛行じゃない。“カンパネラ”が作用するのはジャンプ力だけ。これはそういうスキルだ」


 凄まじい激突音が聞こえて、私は彼の肩を掴んでその背後を覗き込んだ。またしても無数の魚群がミサイルのように突っ込んで、さっきまで私たちが立っていた屋上を蜂の巣に変えてしまっていた。

 男の子の足が隣ビルの縁を蹴った。

 速度がさらに上がった。

 十メートル近い屋上を四歩で軽く飛び越え、さらに隣の建物へ。

 背後で聞こえる轟音。全身に吹き付ける風。私は自分に問いかける。吐きそうか? 泣き叫びたいか?

 けどこれこそが、私の心から望んだトンデモない非日常なんじゃないのか……?


「そのスキルも、今ちょうど切れた」

「ってことはつまり……?」

「もう逃げられない」


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