第一章 先輩はバニーガール ③

 そう、桜島麻衣は有名人だ。恐らく、県立峰ヶ原高等学校に通う全生徒が彼女のことを知っている。いや、日本国民の七、八割が知っているんじゃないだろうか。そう言っても大げさに聞こえないくらいに、本当の有名人なのだ。


「子役として六歳で芸能界デビュー。デビュー作の朝ドラは過去の超ヒット作と肩を並べるほどの視聴率と人気を誇り、一躍時の人となりましたってか」


 それを起爆剤に、その後は映画、ドラマ、CMなどにも多数出演。文字通りTVで見ない日はないという人気を獲得した。

 さすがに、デビューから二年、三年と経過するにつれて、一時期の『なんでもかんでも桜島麻衣』という勢いはなくなったが、逆にそこからは役者としての実力を買われたオファーが増えていくことになる。

 単年で消える芸能人が多い中で、中学生になっても順調に演技の仕事を続けていた。その時点で十分すぎるほどにすごいのだが、彼女には二度目のブレイクまであったのだ。

 十四歳になった桜島麻衣は、大人びた美少女に成長し、その当時公開された映画を切っ掛けに、再び急速に注目を集めていった。一週間のうちに発売される漫画雑誌の表紙グラビアが、すべて彼女の笑顔で埋め尽くされるようなこともあったほどだ。


「俺、中学の頃の桜島麻衣は好きだったな。あの、なんつうの? かわいさとエロスとミステリアスの融合がたまらんかった」


 佑真のみならず、多くの男子が心を奪われていった。

 人気は再び絶頂へ。けれど、その最中に、突如として麻衣は活動休止を発表する。麻衣が中学を卒業する直前。明確な理由は語られなかった。あれからまだ二年と数ヵ月しか経っていない。

 その桜島麻衣が、自分が通うことになった高校にいるのを知ったときには、さすがに驚いた。

 純粋に、「芸能人って実在したんだなあ」と思ったものだ。


「いろんな噂はあったよな。あれだけ売れてるのは、枕営業やってるからだとか、プロデューサーの愛人だとか」

「その頃、まだ小学生だろ」

「さすがに中学になってからの話だよ。むしろ、最初はマネージャーしてた母親の方がやってるなんて噂が、ワイドショーとかに出てたろ。今じゃ、芸能事務所立ち上げて、社長だったか? 先週、そっちの方はTVで見たぞ」

「ふ~ん、それは知らなかった。でも、噂に関しては、どうせ根も葉もないただの噂だろ」

「火のないところに煙は立たないって言葉もある」

「その火元が本人とは限らない。今はそういう時代なんだよ」


 ネットを通して、一瞬で情報は広く伝達する。共有される。たとえ、それが真実でなくても……。受け取る側にとっては真偽などたいして重要ではないのだ。話題になるか、ネタになるか、面白いか、祭りになるか、ザマぁ見ろと思えるか。その程度でいい。


「咲太が言うと説得力が違うね」


 その言葉は軽く聞き流しておいた。

 相変わらずゆっくりと走る電車は、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江ノ島の四つの駅を過ぎていた。

 窓の外を見ると、唯一の路面区間を通過中だった。すぐ隣に乗用車がいるという不思議な光景。でも、「おっ」と思ったときには、通常の線路に戻ってしまった。

 この辺まで来ると、周囲の建物と電車との距離がぶつかりそうなくらいに近い。窓から手を出せば、民家の石垣に手が届きそうだし、庭の木々の枝や葉は、時々車両に当たっているんじゃないかと思うほどだ。

 そうした心配をよそに、電車は家々の間をのんびりとすり抜けて、次の腰越駅に到着した。


「でも、学校じゃ誰かと一緒にいるの見ないよな」

「ん?」

「桜島先輩だよ。咲太が言い出した話題だろ」

「ああ、そうだな」

「いっつもひとりっつうかさ」


 クラスで浮いているという以上に、学校から浮いている。桜島麻衣からはそういう印象を咲太も受けていた。


「バスケ部の先輩に聞いたんだけど、一年の最初の頃は、全然学校来てなかったらしいぞ」

「なんで?」

「仕事。活動休止を宣言したあとも、出演が決まってた作品は出てたろ?」

「あ、そういうことか」


 でも、だったら、全部仕事が片付いてから芸能活動の休止を宣言すればよかったんじゃないだろうか。何か、先に言わないといけない事情でもあれば別だが……。


「まともに来るようになったのは、夏休み明けらしい」

「……そりゃ、しんどいな」


 秋に麻衣が登校した際の教室の様子は容易に想像できた。クラスメイトたちは、一学期という時間をかけて、各々の関係値とグループの勢力図を完全に固めていたはずだ。


「その先は推して知るべしってわけ」


 佑真も同じ想像をしているのだと思う。

 一度決まったクラスの形は、そう簡単には変わらない。自分の居場所があることに安堵して、誰もがそこにしがみ付く。クラス内での地位を守ろうとする。

 二学期から登校するようになった麻衣は、さぞ扱いにくい存在だったことだろう。芸能人でもある麻衣。当然、気にはなるけど、迂闊に触れるわけにもいかない。積極的に麻衣に話しかけるような真似をすれば変に目立ってしまう。目立てば誰かに「ウザい」とか、「調子乗ってる」とか、陰口を叩かれるかもしれない。それを理由に、今度は自分がクラスから浮いていく。そうなったら、もう元には戻れないことをみんなが知っている。それが学校という空間。

 そのせいで、麻衣は学校に馴染む機会を得られなかったのだと思う。

 結局のところ、毎日口癖のように、「つまらない」とか、「面白いことないかな~」とか言ってるくせに、本当はみんな変化など求めてはいないのだ。

 咲太だってそうだ。何もない方が楽でいい。気楽でいいと思っている。心も体も疲れなくていい。平穏万歳。ヒマ最高だ。

 発車のベルが響き、ドアがブシューと音を立てながら閉まる。

 再び走り出した電車はやはりのんびりと民家の間を通り抜けていく。

 目の前には建物の壁。壁に次ぐ壁。家に次ぐ家。時々、やたらと小さな踏切。そして、まだまだ壁と家が続くかと思った瞬間、何の前触れもなく視界が彼方まで広がった。

 海。

 どこまでも続く青い海が見える。朝の太陽の光を反射して、きらきらと輝いていた。

 空。

 どこまでも広がる青白い空が見える。朝の澄んだ空気は、青から白へのグラデーションを作っていた。

 そのふたつの中心には、真っ直ぐに引かれた水平線。この一瞬の車窓には、車内の視線を奪っていく魔力がある。

 電車はしばらくの間、相模湾に面した七里ヶ浜の海岸線を走る。右手には江の島があり、左手には海水浴場として知られる由比ヶ浜を望むことができる魅力的なポイント。


「でも、なんで急に桜島先輩なんだよ」

「国見はバニーガール好きか?」


 窓の外に視線は向けたままで咲太は尋ねた。


「いや、そうでもない」

「なら、大好きか?」

「ああ、大好きだ」

「だったら、教えない」

「はあ? なんだそりゃ。教えろって」


 軽く佑真がわき腹を小突いてくる。


「たとえば、図書館で魅力的なバニーガールに出会ったら、国見はどうする?」

「二度見するな」

「だよな」

「そのあと、ガン見する」


 これが正常な人間の反応だ。少なくとも正常なオスの反応と言える。


「んで、それが桜島先輩と何か関係あるわけ?」

「あると言えばあるけど、どうだろな」

「なんだそりゃ」


 咲太が濁すと、それ以上は追及する気がないらしく、佑真は適当に笑うだけだった。

 なおも海岸線を走る電車は、途中にもうひとつの駅を挟んで、咲太の通う峰ヶ原高校がある七里ヶ浜駅に到着した。


 電車のドアが開くと潮の香りがした。

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