第一章 先輩はバニーガール ⑤

 下駄箱に下りてきたのは、空が赤く染まりかけた頃。

 真っ直ぐに帰宅する生徒の姿はすでにない。学校に残っているのは部活動に勤しんでいる生徒だけという中途半端な時間帯。人気のない下駄箱は静かで、時折聞こえてくる部活の掛け声は、やけに遠くに感じた。今、ここには自分しかいないことを強く実感する。

 駅までの道も殆ど貸し切り状態だった。すぐにたどり着いた七里ヶ浜駅もやはり空いている。授業が終わった直後は、峰ヶ原高校の生徒でいっぱいになる小さなホームに、今は数名の人影があるだけだ。

 その中に、咲太はある人物の姿を見つけた。ホームの端の方に、凜として佇む女子生徒。周囲との接触を拒むような雰囲気。イヤホンのコードは、耳から気だるげに垂れ下がり、制服の上着のポケットまで続いている。

 桜島麻衣だ。

 夕日を浴びた横顔は、どこか物憂げで美しく、立っているだけなのにとても絵になっていた。しばらく眺めていたいと思わせるほどに……。けど、今は別の興味が咲太を動かしていた。


「こんにちは」


 咲太は近づきながらそう声をかける。


「……」


 返事はない。


「こんにちはー」


 先ほどよりも大きな声を出す。


「……」


 やはり、反応はなかった。

 でも、なんとなく咲太の存在に、麻衣は気づいているように思えた。

 物静かな駅のホーム。電車を待っているのは、咲太、麻衣、それと峰ヶ原高校の生徒が他三名。今、観光客と思しき大学生のカップルがやってきた。駅員に一日乗車券『のりおりくん』を提示している。

 ホームの真ん中までやってきたカップルは、ほどなくして麻衣の存在に気づいた様子だった。


「ねえ、あれ」

「やっぱり、そうだよな?」


 指を差しながらこそこそと相談する声が聞こえてくる。麻衣は気づいていないのか、相変わらず線路の方を向いたままだ。


「ちょっと、やめなって~」


 止める気なんてさらさら感じさせない甘ったるい女性の声。ふざけてじゃれ合うカップルのやり取りは、静かな駅の中で耳障りでしかなかった。

 我慢しかねて咲太が振り向くと、男の方がスマホのカメラを麻衣に向けていた。

 シャッターが切られる寸前、咲太はフレームに割り込んだ。パシャッと音がする。きっと咲太のアップが写ったはずだ。


「な、なんだよ。お前!」


 一瞬驚いたような表情を見せながらも、男が強気に前に出てくる。彼女の手前、高校生ごときに遅れを取るわけにはいかないのだろう。


「人間ですが」


 真顔で質問に答えておく。間違ってはいないはずだ。


「はあ?」

「そっちは盗撮野郎ですか?」

「んなっ! ち、ちがっ!」

「ガキじゃないんだから、ダサいことしないでくださいよ、お兄さん。見てるこっちが恥ずかしくなる。同じ人間として」

「だから違うって!」

「どうせ、鬼の首を取ったような気分で、写真付きのツイートでもする気なんだろうけどさあ」

「っ!?」


 図星だったのか、男の顔は一瞬で怒りと羞恥に染まる。


「注目浴びたいなら、あんたの写真を撮って、『盗撮野郎です』ってアップしてあげましょうか?」

「……」

「小学生のときに言われましたよね? 『自分がされて嫌なことは、人にしないようにしましょう』って」

「う、うるせえ、バカ!」


 ようやく、それだけ絞り出すと、男は彼女の手を引いて、ホームにやってきた鎌倉行きの電車に乗り込んだ。一本しか線路がないこの駅は、上りも下りも同じホームに電車が交互に来て止まるのだ。

 走り出した電車を何気なく見送っていると、咲太は背中に視線を感じた。

 恐る恐る振り向くと、麻衣が面倒くさそうにイヤホンを外しているところだった。

 咲太と目が合うと、


「ありがと」


 と言ってくる。


「え?」


 麻衣の意外な反応に、咲太は驚いた声を出してしまう。


「『余計なことしないで』って怒られるとでも思った?」

「はい」

「それは思うだけで我慢してる」

「だったら、それも言わないでほしかった」


 そもそも言ってしまった時点で、全然我慢をしていないと思う。


「ああいうのは、慣れてるから」

「ああいうのは、慣れても何かが磨り減るもんでしょ」

「……」


 思いがけない言葉だったのか、麻衣が瞳の奥にわずかな驚きを示した。


「磨り減る……ほんとその通りね」


 何が楽しいのか、麻衣が口元に小さな笑みを浮かべる。

 今なら話ができるような気がして、咲太は麻衣の隣に立った。

 でも、先に質問を飛ばしてきたのは麻衣の方だった。


「なんでこんな中途半端な時間にいるの?」

「クラスの女子から、屋上に呼び出されて」

「告白? モテるんだ、意外」

「憎悪の告白の方ですけど」

「なにそれ」

「あなたのことがとても嫌いですと、面と向かって言われました」

「最近、そういうのが流行ってるんだ」

「少なくとも、僕は生まれてはじめての経験です。桜島先輩の方こそ、どうしてこんな中途半端な時間に?」

「君にばったり会わないよう、時間を潰してたの」


 麻衣の横顔からは、本気か噓か見分けがつかない。確認して本当だとわかると嫌なので咲太は聞くのはやめておいた。

 時刻表を振り返って、話題を変えることにする。


「正確には、今、何時ですか?」

「時計は?」


 両手首を出して腕時計がないことを見せる。


「なら、ケータイを見なさい」

「ないです」

「スマホだって言いたいわけ?」

「ケータイもスマホもないんです。今日、忘れてきたって意味でもなくて」


 持って来ていないのではなくて、単に持っていないのだ。


「……ほんとに?」


 麻衣は信じられないという顔だ。


「ほんとにほんとです。前は使ってたけど、むしゃくしゃして海に投げ捨てました」


 今でもよく覚えている。峰ヶ原高校の合格発表を見に来た当日の出来事……。

 重さ約百二十グラム。それ一台で世界中と繫がれる便利な通信機器は、振り被った咲太の手を離れると、緩やかな放物線を描いて海に落ちていった。


「ゴミはゴミ箱に捨てなさい」


 ごもっともなお叱りを受けてしまった。


「次からそうします」

「君、友達いないでしょ」


 ケータイで連絡が取れなければ、友達付き合いもできない……今はそんなご時世だ。麻衣の指摘は当たっている。番号、メアド、IDの交換が、友達作りの最初の切っ掛けだから、それひとつないだけで、社会のルールから零れてしまう。狭い学校という世界の中で、ルールを共有できない人間は最初からあぶれていく。おかげで、入学当初は友達作りに苦労した。


「友達ならふたりもいますよ」

「ふたりは『も』かしら?」

「友達なんて、ふたりいれば十分だと僕は思いますけどね。そいつらと一生友達すればいいんだし」


 スマホに登録された番号、メアド、IDの数に意味なんてない。たくさんいればいいというわけでもないと思う。それが咲太の持論だ。

 そもそも、友達の線引きをどこでするか……という問題もある。咲太にとっては、『深夜に相談の電話をしても、渋々付き合ってくれる』くらいの間柄を言う。


「ふ~ん」


 適当な相槌を打ちながら、麻衣が上着のポケットからスマホを取り出した。ウサギの耳が飛び出した赤色のカバーがしてある。

 その画面を咲太に向けてくる。表示されていた時刻は四時三十七分。あと一分で電車は来る。そう思った直後、麻衣の持ったスマホはぶるぶると震え出して、着信を伝えてきた。

 見えてしまった画面には、『マネージャー』と記されていた。

 麻衣の指が拒否に触れる。震動は止まった。


「いいんですか?」

「電車来たし……出なくても、あの人の用件はわかってる」


 気のせいか、言葉の後半からは苛立ちを感じた。

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