第一章 先輩はバニーガール ⑥
ゆっくりとホームに藤沢行きの電車が入ってくる……。
麻衣と同じ乗車口から乗ると、空いていた席に並んで座った。
ドアが閉まり、ゆるゆると電車が走り出す。乗客の数はほどほど。座席は八割ほどが埋まり、数名が立っている状態。
無言のまま、二駅ほど進んだ。海も見えなくなり、住宅街のど真ん中をガタンゴトンと走っていく。
「昨日のアレなんですけど」
「それは忘れなさいと、昨日、忠告したわよね」
「桜島先輩のバニー姿はエロすぎて忘れるのは無理でした」
我慢していたあくびが出る。
「おかげで昨晩は興奮して、全然寝付けなかったし」
恨めしそうに麻衣を見る。
「ちょ、ちょっと! 私を想像して変なことしてないでしょうね」
侮蔑の眼差しと、辛辣な罵声が飛んでくるのかと思いきや、麻衣は顔を赤らめて慌てていた。恥ずかしさを我慢するように、上目遣いで睨み付けてくる。なんともかわいらしい仕草だ。
でも、麻衣はすぐに動揺を押し殺すと、
「べ、別に年下の男の子にエッチな想像されるくらい、私は平気だけどね」
と、取り繕うように言い訳をしてきた。相変わらず頰は朱色に染まったままだ。強がっているのは一目瞭然。大人びた外見とは裏腹に、意外とウブなのかもしれない。
「ちょっと離れてくれる?」
汚いものを追い払うように、麻衣が咲太の肩を押す。
「うわ~、傷付くなー」
「だって、妊娠しそう」
「名前は何がいいかな?」
「君ね……」
麻衣の視線が冷たく凍っていく。どうやら、調子に乗りすぎたらしい。
「私が忘れろと言ったのは格好のことじゃなくて……」
「なら、昨日のアレはなんだったんですか?」
麻衣が逸らした話題に咲太は素直に乗っかった。元々、そのことを聞くつもりで声をかけたのだ。
「ねえ、梓川咲太君」
「名前、ちゃんと覚えててくれたんですね」
「人の名前は一度で覚えるようにしてるの」
見習いたい心がけだ。今は休止している芸能活動の中で培ったものだろうか。たぶん、そうなのだと感じた。
「君の噂、聞いたわよ」
「噂……ね」
何のことかは想像がつく。今日もその件で、屋上に呼び出されたくらいだ。
「正確には、聞いたんじゃなくて見たんだけど」
そう言って、麻衣は一度しまったスマホをブレザーのポケットから出した。どこかの掲示板を開いている。
「中学は横浜の方だったんだ」
「そうです」
「暴力事件を起こして、同級生三人を病院送りにしたとか」
「意外と武闘派なんですね、僕って」
「そのせいで、本当は横浜の高校に進学が決まってたのに、二次募集でわざわざ峰ヶ原高校を受験してこっちに引っ越してきたとか」
「……」
「他にも色々あるけど、まだ続ける?」
「……」
「『自分がされて嫌なことは、人にしないようにしましょう』って、さっきいいことを言ってた人がいたわね」
「別に詮索されるくらいなんともないですよ。むしろ、桜島先輩に興味を持ってもらえて光栄です」
「ネットってすごいね。こんな一個人の情報まで堂々と晒されてるんだから」
「そうですね」
素っ気無く返事をする。
「ま、書かれていることが事実である保証はないんだけど」
「先輩はどう思ったんですか?」
「自分の頭で少し考えればわかるでしょ。そんな大事件を起こした人間が、平気な顔して高校に通えるわけがない」
「その台詞、クラスメイトに聞かせてあげたいなぁ」
「違うなら違うって、自分で言いなさい」
「噂って空気みたいなものじゃないですか。『そういう空気』って意味の空気……最近じゃあ、読まなきゃいけないことになっている『空気』」
「そうね」
「読めないだけで、ダメなやつ扱いされる空気……あれって、その空気を作っている本人たちに、当事者意識なんてないから、熱心に本当のことを説明したところで、どうせ『なにあれさむーい』ってなるのがオチですよ」
戦っているのは目の前の人ではないから、何を言ったところで手応えなんてないのだ。そのくせ、何かをすれば、見えないところから集中砲火が返ってくる。
「なのに、空気と戦うなんてバカバカしいですって」
「だから、誤解はそのままにして、君は戦う前から諦めるんだ」
「どの道、誰が言い出したのかもわからない、噂や書き込みを、何も考えずに信じてしまえるピュアな連中とは、友達になる自信がないからいいんです」
「悪意のある言い方ね」
麻衣の浮かべた笑みには共感が見て取れた。
「次は先輩の番」
「……」
一瞬、不機嫌そうな目を麻衣が咲太に向けてくる。でも、咲太の事情を聞いた手前、諦めたように口を開いた。
「気づいたのは、四連休の初日」
つまり、四日前。五月三日。憲法記念日。
「なんとなく気まぐれで江の島の水族館に行ったの」
「ひとりで?」
「悪い?」
「恋人とかいないのかなぁと」
「そんなのいたことない」
つまらなそうに麻衣が唇を尖らせる。
「へえ~」
「私が処女だったらいけない?」
咲太をからかうように、麻衣が下から顔を覗き込んでくる。
「……」
「……」
見つめ合うふたり。
見る見る麻衣が赤くなっていく。首まで真っ赤だ。自分で仕掛けてきたくせに、『処女』という単語が恥ずかしくなったらしい。
「あ~、僕、その辺は気にしない主義なんで」
「そ、そう……とにかく! 家族連れで賑わっている水族館の中で、誰も私を見ていないことに気づいたのよ」
ふてくされたような麻衣の横顔は、少し幼く見えてかわいらしい。大人っぽい外見しか知らなかったので色々と新鮮だ。それを指摘すると、また話が脱線するので、咲太は心の中にしまっておくことにした。
「最初は気のせいだと思った。芸能活動をやめて二年近く経つし、みんな魚を見るのに夢中だったからね」
声のトーンは徐々に深刻なものへと沈んでいく。
「でも、帰りがけに近くの喫茶店に入った瞬間にはっきりした。『いらっしゃいませ』の声もかけられないし、席にも案内されないんだから」
「セルフのお店だったんじゃ」
「昔ながらの喫茶店。カウンター席があって、他にはテーブルが四つくらいしかない小さなね」
「じゃあ、実は前に行ったことがあって、出入り禁止を食らうほど先輩がなんかやらかしたとか?」
「そんなわけないでしょ」
片方の頰を怒りに吊り上げた麻衣が、咲太の足を踏んできた。
「先輩、足」
「足がどうかしたの?」
麻衣は真顔だ。本当に何もわかっていないという雰囲気を出してくるからすごい。演技のプロとはこういうものかと思う。
「いえ、踏んでもらえて幸せです」
冗談のつもりだったのに、麻衣はドン引きしている。隣に座っていた男性が降りたのをいいことに、咲太から少し離れる始末。
「ジョークですって」
「少なくとも数パーセントの本気を感じた」
「ま、そりゃあ、男として、美人の先輩に構ってもらえるのはうれしいですから」
「はいはい。もう話が進まないから黙って。なんだっけ?」
「喫茶店で出入り禁止を食らった話です」
「怒るわよ」
そう言った麻衣の視線は鋭く、どう見てもすでに怒っている。
反省の意を伝えるために、咲太は口にチャックのジェスチャーをした。
「お店の人に話しかけても反応がなくて、他のお客さんたちもまったく私に気づいてなかった」
不機嫌そうな顔のまま、麻衣は話を続けた。
「さすがにびっくりした。逃げ出すように帰ってきたんだけど」
「どこまで?」



