第一章 先輩はバニーガール ⑦

「藤沢駅よ。でも、着いたらなんでもなかった。みんな普通に私のことを見てた。あの『桜島麻衣』だって驚いた顔をしてね。だから、江の島でのことはやっぱり気のせいだと思ったんだけど……気になったから他の場所でも同じことが起きないか、調べて回ってたの」

「それで、バニーガール?」

「あの格好なら、見えてたら見るでしょ。気のせいを疑う余地がないほどに」


 確かにその通りだ。あの日の咲太の反応が、その効力の高さを証明している。


「で、他の場所……ってか、湘南台でも同じことが起きてたってわけか……」

「そう。今なら、世界中の人から見えなくなってるのかもって期待したんだけどな」


 なぜだか、咲太を責めるような目を向けてくる。


「今日、学校でも普通だったし……今もね」


 それとなく麻衣が奥のドア付近へ意識を促す。別の高校の制服を着た男子生徒が、スマホを確認する傍ら、ちらちらとこちらを見ている。当然、お目当ては咲太ではなく麻衣だ。


「おかしな体験をしてるのに、先輩は楽しそうですね」


 率直な感想を咲太はぶつけた。今のところ、麻衣の様子に悲壮感はない。


「そりゃあ、楽しいもの」

「正気ですか?」


 意味がわからずに、疑問を視線で投げかけた。


「今までずっと人に注目されて生きてきたのよ? 人目を気にして生きてきた。だから、子供の頃からずっと願ってた。誰も私のことを知らない世界に行きたいって」


 噓を語っているようには見えなかった。けど、それが演技だと言われても、信じるに足る理由が麻衣にはある。彼女は子役から役者をしている実力派の女優だ。

 そんな話の途中、麻衣が電車の吊り広告に目を向けるのに咲太は気づいた。小説の映画化作品の宣伝。主演の女優は、最近売り出し中の人気者。麻衣と同い年だったと思う。

 芸能界の動向が気になるのだろうか。懐かしいのだろうか。いや、そういうのとは違う気がした。遠くの世界を見つめるような麻衣の瞳の奥には、くすぶるような感情が揺らいでいるように思えた。

 言い換えるのであれば未練や執着と呼べるもの。


「先輩?」

「……」

「桜島先輩?」

「聞こえてる」


 瞬きをひとつしたあとで、麻衣は咲太を横目に捉えた。


「私は今の状況に満足しているの。だから、邪魔をしないで」

「……」


 いつの間にか、電車は終点である藤沢駅のホームに止まっていた。ドアが開く。先に立った麻衣を、咲太は慌てて追いかけた。


「これでわかったでしょ。私がどれだけいかれた女か」

「……」

「もう関わらないで」


 きっぱりと言い切ると、麻衣は速度を上げて改札口を通過した。そのまま、ここでお別れだとばかりに咲太との距離を広げていく。

 少しずつ離れていく麻衣の背中を、咲太はどうせ帰り道だからとしばらく追いかけた。連絡通路を渡り、JRの駅舎に入る。

 麻衣はその一角にあるコインロッカーの前で立ち止まった。中から紙袋をひとつ取り出している。かと思えば、再びそそくさと歩き出し、パンを売っている売店に立ち寄っていた。


「クリームパンをひとつください」


 おばちゃんにそう声をかける。

 聞こえなかったのか、おばちゃんは無反応だ。


「クリームパンをひとつください」


 再度、注文を麻衣が繰り返した。

 でも、やはり、おばちゃんは応じない。麻衣のことが見えていないかのように、あとからやってきたサラリーマン風の男性から千円札を受け取っている。麻衣の声が聞こえていないかのように、女子中学生にはメロンパンを手渡していた。


「すいません、クリームパン」


 咲太は麻衣の隣に歩み出ると、大きな声でおばちゃんに声をかけた。


「はい、クリームパンね」


 カウンター越しに差し出された紙袋の代わりに、咲太は百三十円を手渡す。

 売店から数歩だけ離れると、麻衣にクリームパンの包みを持たせた。

 麻衣は居心地が悪そうに俯いている。


「本当は少しだけ困っていたりしませんか?」

「そうね。ここのクリームパンが食べられないのは困るわ」

「ですよね」

「でも……君は私の頭のいかれた話を信じるの?」

「そういう話を、なんて呼ぶのか、僕は知ってるんで」

「……」

「思春期症候群ですよね」


 麻衣の眉がぴくりと反応した。

 他人から見えなくなるという例は耳にしたことがなかったが、『他人の心の声が聞こえた』とか、『誰々の未来が見えた』とか、『誰かと誰かの人格が入れ替わった』とか、そうした類のオカルトじみた出来事についての噂話は色々ある。その手のネットの相談掲示板を覗けば、他にもゴロゴロと転がっている。

 まともな精神科医は、多感ゆえに不安定な心が見せる思い込みだと、ばっさり切り捨てていた。自称専門家は、現代社会が生み出した新種のパニック症状だと語っていたし、面白がっている一般人たちの考察の中には、「集団催眠の一種だろ」なんて意見もあった。

 思い描いた理想と、ままならない現実。その間に生じたストレスがもたらす心の病気だという人もいた。

 ひとつだけ共通しているのは、誰も本気にしてはいないという点。大半の大人は、「そんなのは気のせい」で流している。

 その程度に無責任な意見交換の中で、誰が言い出したのかはわからないが、いつしか麻衣の身に起きているような不思議な出来事のことを、『思春期症候群』と呼ぶようになっていた。


「思春期症候群なんて、よくある都市伝説じゃない」


 そう、麻衣の言う通りだ。都市伝説。普通、誰だって信じない。誰だって麻衣と同じ反応をする。たとえ、不思議な状況を目の当たりにしても、気のせいだと思う。体験しても素直に受け入れたりはしない。そんなことは起こるはずがないという常識の中で、咲太たちは生きているのだから。

 だけど、咲太には否定できない根拠があった。


「僕が先輩を信じてることを信じてもらうために、先輩に見せたいものがあります」

「見せたいもの?」


 訝しげに麻衣が眉根を寄せた。


「ちょっと付き合ってくれませんか?」


 咲太の提案に、麻衣は少し考えたあとで、


「……わかった」


 と、小さな声で頷いた。


    4


 咲太が麻衣を連れてきたのは、駅から十分ほど歩いた住宅街の一角。


「ここは?」


 麻衣が見上げた先には、七階建てのマンションがある。


「僕ん家です」

「……」


 疑惑と軽蔑がない交ぜになった視線が、真横から突き刺さる。


「別に、何もしませんよ」


 小声で、「たぶんだけど」と付け足した。


「今、何か言ったでしょ?」

「先輩に誘惑されたら、自制する自信がないって言ったんです」

「……」


 麻衣は口を真一文字に結んでいる。


「あれ? 先輩、緊張してる?」

「き、緊張? だ、誰がぁ?」

「声、裏返ってるし」

「と、年下の男の子の部屋に入るくらい、別になんともない」


 ふんっと鼻を鳴らし、麻衣がすたすたと入口を目指して歩き出す。笑みを堪えながら、咲太はすぐさま追いかけて麻衣の隣に並んだ。


 エレベーターで五階へ上がる。右を向いて三つ目が咲太の住んでいる部屋だ。


「ただいま~」


 玄関を開けて声をかけるが返事はない。普段なら、妹のかえでが待ち伏せをしていたりするのだが、今日は帰宅時間が不規則になってしまったので、へそを曲げているのかもしれない。もしくは、単に寝ているか、読書に集中していて、兄の帰宅に気づいていないだけかもしれないが……。


「上がってください」


 靴を履いたまま、玄関で硬直していた麻衣を招き入れる。

 入ってすぐの咲太の部屋へ通した。

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